「壱人両名」、すなわち一人の人間が2つの名前を持つということです。
江戸時代も中期を過ぎると社会の変化が大きくなってきますが、その頃に農民と町人、町人と士分といった2つの身分を持つという人々が数多くなっていました。
商人の活躍が大きくなってくると、農民であった人が町に出て商人となるということも増えます。
しかし元の村の方では居なくなったから抹消ということは年貢確保の意味からできず、仕方ないので元の農民の籍も残すということになりました。
農民の名前と商人の名前というものは違いますので、結局は一人が2つの名前を持つということになります。
士分と町人・農民の重複の場合は少しやっかいで、これは公式には禁止されていることでした。
しかし、武士の困窮が進むとともに、武士の身分を株として購入するということが増えてくると、一方では武士の身分で武士らしい名前を名乗りながら、一方ではもともとの町人としての名前も保持しているという例が頻発します。
こういったことは、周囲も承知の上で行われてきたというのがほとんどのようで、何事もなければそのまま問題なく推移するのですが、ひとたび何か事件が起き、公的な場で奉行所や評定所などを巻き込むとやはりただでは済まなくなりました。
それでも、そういった場で咎められても、その「壱人両名」自体が悪いというよりは、「もっとうまくやれ」という意味の方が強かったようです。
江戸時代の庶民支配のために、「人別」(にんべつ)というものが使われました。
これは、詳しくは「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう)というもので、もともとは初期のキリスト教禁止の目的で行われた宗門改めの帳面ですが、それには村民の全部の名前を書き出すということで、江戸中期以降は戸籍のような役割を果たしました。
また、江戸などの町でも町人の支配のために町人の人別が作られるようになります。
ただし、江戸時代の庶民支配というものは、必ずその支配の系統ごとに行われ、それらが同時に複数存在するというのがその特徴でした。
大きな藩の村であれば一つの支配系統で済むのですが、小さな旗本や、公家、寺社の領地などは一つの村をいくつもの系統に分けているということもよくあることで、それごとに支配系統が分かれていました。
場合によって、ある旗本の支配の下に数件、寺社の支配に数軒というふうに村の支配が分かれているということもあり、複雑な支配系統が入り乱れていたようです。
そのような状況で、村の中でも複数の人別に名前があるということもありました。
そこで別の名前を使うということもあり、それは「両人別」となったようです。
この本では、尾脇さんが数多くの実例を示し、壱人両名の事態に至った過程、それが引き起こした騒動、それに対しての奉行所や評定所の判決例などを紹介しています。
こういった事態が特殊な例などではなく、どこにでもあったことと言えるようです。
このような「人別」というものは、農民や町人など庶民のものであり、武士や公家、神職などは人別帳には載っていませんでした。
こういった支配者階級が非支配階級と混交するというのは、さすがに問題視され処罰されるという事例が多かったようですが、それも仕方のない状況と言うべき場合もありました。
京都周辺で、天皇家の用を足す下級官人を「地下官人」と呼んだそうですが、これらの職に町人を雇うということは広く行われていたようです。
地下官人といえど、士分になりますので、それ相応の名前も名乗ります。
しかし、彼らに対してはそれほどの俸給を払うこともできず、また常時仕事があるわけもないために、従来の町人としての職業をそのまま続ける例がほとんどだったようです。
これも、一応形の上では身分を越えた兼名であり、禁止事項だったのですが、何事もなければおめこぼしで済んだようです。
こういった「なんとかうまくやっていった社会」は、明治維新となって崩れ去ってしまいました。
明治政府が打ち出した「一人一名」つまり、唯一つの名前を持つという戸籍制度の強制で壱人両名という状態は消え去っていきました。
それとともに、幼名や名乗り、襲名といった改名も禁止されていきました。
今では、生まれたときに付けられた名前で一生過ごすというのが普通と考えられていますが、そうではなかった時代がわずか昔にあったということです。