日本神話を利用したと言えばもちろん、国家神道として強制的に信じ込ませた戦前の体制なのですが、昔から類することはあったようです。
古事記・日本書紀に代表される日本神話は8世紀に成立しましたが、その後そのままの形で影響を及ぼしてきたわけではありません。
特にその動きが強かったのが平安時代、江戸時代、そして明治期以降だったそうです。
そこでは、古事記・日本書紀をそのままの形で利用するのではなく、自分たちの都合に合わせて変身させ、切り取り、改変しながら使っていました。
著者の斎藤さんは、記紀そのものの研究ではなく、そのような改変神話の方がご専門のようです。
あまり知られていないその実態について、教えてもらえました。
平安朝の初期には、日本書紀というものが皇室を支える支柱のようなものと見られていました。
古事記はそれほど重要視されることはなかったようです。
日本書紀の解釈というものが貴族の身につけるべき基礎と見られ、史家とされる人々による「日本記講」と呼ばれる講習会が開かれたそうです。
しかし、藤原氏の摂関政治全盛となるとそのような動きもすっかり影を潜めたそうです。
そこからは、神社の神官や藤原氏以外の不遇な貴族などにより日本記の解釈、それもトンデモ本並のすごいものが出回ったそうです。
いずれも、神話の世界に根拠を求めて現在の自分たちの境遇を少しでも有利にしようとする動きでした。
なお、当時は神官だけでなく仏教の僧侶もその動きにかなり加担していたようです。
江戸時代も後期になり、本居宣長が古事記を再発見したと称して大きな影響力を作り出しました。
中世の記紀の改変を排し、正統な読み方に戻るとして、「古事記伝」を著したのですが、その内容はかえって中世の神話の勝手読みに近いものとも言えたようです。
さらに、宣長の弟子を自称した平田篤胤ですが、実際は宣長に会ったこともなかったということで、危険視されることもあったようです。
それでもその主張は幕末の多くの人々に影響を与えました。
この主張も、かなり恣意的に記紀を改変したという傾向が強かったようです。
明治維新以降の新たな天皇制のもとで、国家神道と言うものが大きな力を得ます。
これは実は宗教的な側面を削ぎ落とし、あくまでも天皇制擁護の制度として生まれ変わりました。
そのため、神話も天皇家の正統性証明の意味だけに使われるという、寒々しいものとなりました。
神道や宗教ではないと言う性格を強めたために、他の宗教の存在も認められるということになりましたが、神道の類縁宗教だけは厳しく取り締まられたそうです。
神話というものが、さまざまに利用されることにより大きな変貌を遂げてきたということが分かりました。