爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戒名のはなし」藤井正雄著

「戒名」といえば葬式の時に坊さんに付けてもらう何やら意味のよくわからない名前で、その御礼に何十万やら何百万やら「払わされた」といった印象だけでしょうが、その戒名に関して様々な観点から論じられています。

 

著者の藤井さんは仏教界の方ではなく宗教学者のようです。だからこそ第三者的観点から冷静に解説することもできたのでしょうか。

 

戒名というとやはり高額な「戒名料」に興味が行ってしまいます。

これについては、古くは江戸時代からも問題視される場合もあったようですが、社会的にも広く知られるようになったのは、1997年に朝日新聞紙上で報じられた当時の浄土宗宗務総長で、作家としても寺内大吉ペンネームで知られていた成田有恒氏と白鳳短大学長の山折哲雄氏の対談であったそうです。

ここで寺内氏は戒名料なるものを肯定的に捉え、ある程度の費用がかかるのも已むを得ないという論調で話していたそうです。

 

仏教界でもその問題を重視し、さらにこれが寺と檀家の関係が希薄化し葬式だけのつながりになってしまっているとして、その対応なども考えられてきたそうです。

 

 この本ではこういった現在の問題だけでなく、戒名の起源から様々な歴史的経緯まで深く解説されています。

 

戒名または法名は、現在では葬式の際、すなわち死後に付与されるものがほとんどですが、元々は戒律を与えられた時に名前も与えられる、すなわち出家した際に付けられたという意味で「戒名」と言われたものでした。

その起源は中国にあるというのが定説のようですが、インド起源であるという説もあるようです。

元々、日本では名前というものは一生の間に何度も変えていくものでした。産まれた時には幼名をつけ、それが長じて元服名、さらに一家の当主となれば襲名、隠居すれば隠居名、と変えていって、最後に戒名を付けるという流れは不自然なものではなかったようです。

 

葬式にあたって戒名を付けるという現在の風習は、在家の信者の葬式の儀礼がなかったために死にあたり出家させるという意味があったようです。

そのために、かつては死者の髪を実際に剃り、出家としての体制をすべて整えるということが行われました。

しかし、徐々に髪を全部剃り落とさずにカミソリを当てるだけといった儀礼化していき、やがてその意味も失われていきました。それでも戒名を付けるということはまだ残っているようです。

 

なお、法名というのは他宗派でも使われることがありますが、主に浄土真宗で使われており、真宗では死者も戒律を守って出家するということを取らないために戒名という名称は使えず、法名と言うようになったということです。

 

今の戒名では何々院殿なんとか大居士といった形式のものもありますが、元々は二文字の法名だけだったものに、歴史的経緯で様々な文字が付け加わってきたようです。

これも宗派により相当な差があり一概には言えませんが、その形式により布施の額も変わると言ったこともあるようです。

 

部落問題など、差別にも関与した戒名というものも存在していました。松門、栢門、といったものから、革門、革男といった露骨なものまであり、一目見れば被差別部落のものであることが分かるようになっていたそうです。

仏教界だけの責任ではないでしょうが、それに加担していたのは間違いないのでしょう。

 

戒名をこれからどうするか、単に戒名料だけの問題にとどまらず本来の戒名の意味を改めて問うことから始めるべきであるとされています。

 

 

戒名のはなし (歴史文化ライブラリー)

戒名のはなし (歴史文化ライブラリー)

 

 

宗教に関する本ではかつて地方の寺院が軒並み廃業していくという実情を描いた本も読みました。これからどうなっていくのか、難しい状況なのでしょう。