著者は本書出版の2005年当時は広島修道大学教授で英語教育、言語政策が専門の方です。
英語教育改革が進められていた当時の、その政策の軽薄さに危機感を持って執筆されていますが、それから10年余りがたち小学校の英語教育も始まった現在でもその危惧が解消されたとはいえない。というか、もっとひどくなっているようにも感じます。
(なお、この読書記録では同様のことをしょっちゅう書いているようです。”これは10年前の本ですが、ここに書かれている問題は解決されることなくさらに悪化している”といった文章を何度も書いていますが、これは読書対象としてよく使っている我町の田舎図書館が新刊書をあまり置けない財政事情もさることながら、本に書かれた時から現在までまったく状況が改善されることが少ないという方が問題でしょう)
本書執筆の直前、2002年には文科省が「英語が使える日本人育成のための戦略構想」というものを策定しました。
さらにその翌年に「行動計画」も発表しています。
しかし、それらの内容は「体制づくりを目指す」とか、調査して把握する、何々を図るといったおよそ行動計画などといった言葉にふさわしくないものばかりで、文科省が英語教育の理念をかたったことはなく、目標も計画も皆無です。
現代は「英語の時代」となっています。日本ばかりでなく世界中で英語が共通言語として使われています。
これは古代ローマ帝国でラテン語が通用していたことを思わせますが、実はローマ帝国の内部全てでラテン語だけが通用していたのではなく、東半分ではギリシア語が通用し、さらに支配地域においてはその地の言葉よりラテン語を強制するということはありませんでした。
それと比べると現在の英語の広がりはさらに大きいようです。
日本に言語政策はあったかということを本書2章で取り上げられていますが、明治時代以降、日本語を共通語化するという政策はあったのですが、外国語に対する政策というのは非常に曖昧であったようです。
エリートのための英語教育というものはあったのですが、それが効率的ではなく、さらに受験英語という変な形態のものに陥ったのが事実で、それを批判して「使える英語」を大衆的に教育するという方向性が強調されました。
しかし、それのための方法が追求されること無く、単に会話調の文章をまる覚えさせるだけになっている状態です。
戦略構想では、中学卒業時には挨拶程度の平易な会話ができることとなっています。
しかし、「こんにちは、僕の名前は山田です」といったことが言えるだけで次につながるのでしょうか。
日常会話というのが次のようなものだとしたら、それを話すということはどういうことでしょう。
「せっかく土産にと思って買った茶碗なのに割れちゃった」「そういえば長く会っていないね、近いうちに昼飯でも」「今度アメリカに行くんだけど、税関検査が厳しくなっているんだってね」
「日常の話題に関する通常の会話」というのはこのようなものです。しかし、ここに挙げた例だけでもその文章を英検2級程度の英語力で何とかできるかというと、それは極めて難しいものでしょう。
ここで著者は「戦略構想」の欠陥として次の2点を挙げています。
1.国民の基礎教育としての英語教育を、英会話のような特殊技能教育に限定しようとしている。
2.その上で一定の能力を国民全体に義務的に課している。
これらが大きな欠点であるという著者の主張は非常に打倒なものと思います。
本書出版の直前の2002年に小学校の英語教育が予行演習として始められました。しかし、それは「英会話に触れる」「外国の生活文化に触れる」といった位置づけであり、どのような方針でどこまで企画されているかというと疑問の大きいものです。
「ずるずると」実施に向かって動いてきただけであり、それが「英語教育」なのか「英語あそび」なのかも曖昧なままです。
中学以降の英語教育でも、「実践的なコミュニケーション能力の基礎を養う」とされていますが、これも挨拶や応対の簡単なやり取りというもの以上の考えはないようです。
著者の意見では、英語によるコミュニケーション能力の基礎とは簡単な英会話を覚えることではありません。
基礎とは文字通り「土台」であり、分かりやすい発音としっかりした文法、それを活かす語彙力でなければならないというものです。
極めて当然の主張でしょう。
著者は中学の英語教科書7種を実際に調査検討しています。その内容の90%が対話型です。
しかし、英語の構造自体を理解しているとは考えられない中学生にこれらの対話を提示してもそれは会話文そのものを丸暗記させることに他なりません。
言語能力というものを会話文章の丸暗記だけで付けさせるのは困難です。
英語力というものは会話能力に現れるのですが、その結果というものと会話文の暗記という手段を短絡しているのが現在の英語教育のようです。
英語教師の英語力も、その養成過程をみればそれほど高いとは言えない状態です。
一部の英語教師の英語力は非常に高いのですが、全体としては低い教師が多いのが実情のようです。
香港でかつて英語教師の能力判定テストを実施しようとしたのですが、教師の強力な反対運動に会いました。日本ではどうでしょうか。
英語が世界的に広がっているのですが、それがどの英語かというのも問題です。すでに、イギリスやアメリカの英語ばかりではなくなっています。
日本の学校にALT(Assistant Language Teacher)と呼ばれる外国人指導助手が多数配置されていますが、その出身地は最近では英米ばかりでなく他の国が増加しているそうです。
いわゆる「ネイティブスピーカー」が世界各国で求められているために、品薄になってしまったようです。
国際語としての英語になっている以上、どこの出身者であっても良いのでしょうが、それに対応する学ぶ側の姿勢も必要になりそうです。
著者の懸念というのは、英語教育に対する日本の見通しの無さというところにあります。
教育政策を動かしているのは「論理」ではなく「気分」にしか見えません。
外国語教育でももっとも大切なのは「どのような日本人を育てるのか」ということであるべきであり、場当たり的な方法で右往左往することはやめて欲しいということです。