かつては農村の周辺の山と言うものは、非常に重要なものでした。
そこで取れる枯れ枝などは薪として燃料とし、下草は田畑にすき込んで肥料とし、間伐した木は炭に焼いて換金しと、農村の生活を支えるためには無くてはならないものでした。
研究によれば、田畑の農耕地の5倍から10倍の広さの山がなければ運営できなかったとも見られています。
しかし、たいていの農村は山を境界として隣の村と接していたため、その山のどこまでが村の権利が及ぶかということは常に紛争の種でした。
江戸時代より前の時代では、村が直接暴力に訴えて解決ということも多かったようですが、徐々に権威に訴えて決着をつけようということになります。
本書では、江戸時代を中心にして各地で起きた山争いの裁判の様子を当時の史料をもとに説き明かしています。
農村で生活していくには不可欠であった山野は、江戸時代には個人所有のものはあまりなく、多くは隣接した一つの村、または複数の村で共同所有し利用することが一般的でした。
これを入会地(いりあいち)と呼びます。
一つの村だけの入会を村中入会(むらじゅういりあい)、複数の村での入会を村々入会(むらむらいりあい)と言いました。
これらは共有財産の利用であったので、様々な規則が設けられました。
利用期間を区切ったり、草や木の採取に使える用具を指定したり、採取量を制限したりというものです。
そして、その規則に違反したものには厳しい罰則も決められていました。
重いものでは耳を削いで村を追放するという場合もありました。
複数の村の境界にある山の使用をめぐっては、双方の村での争いが起こりやすく、中世までは村の自力(暴力・武力)により解決をはかりました。
しかし、徐々に紛争解決の工夫が重ねられました。
湯起請(ゆぎしょう)と呼ばれる、双方の代表者が熱湯に手を入れ、火傷しなかった方が勝訴とか、鉄火起請(てっかきしょう)という焼けた鉄棒を握り火傷するかどうかで決めるという、今から見ると残酷な方法での解決も行われました。
このような農村と山との関係は、徐々に戦国大名が支配を伸ばすと領主に形式的に所有権を献上し守ってもらう「立山・立林」、そして江戸時代になると藩に同様に献上する「御林」という形態になります。
いずれも、所有権は武士に任せても利用権を農村が確保するということになります。
その後、江戸時代も初期を過ぎ幕府や藩の支配が安定してくると村同士の山争いも裁判に訴えて解決を図るようになります。
本書では、信濃の国松代の真田家の文書として残っている、山争いの裁判の記録と、出羽の国村山の百姓伊藤義左衛門が残した文書を基にした裁判の記録から、山争いの実態を描写しています。
裁判を開いた藩や幕府もあまり解決の意志が無かったのか、裁判は長期化し関係者の負担も非常に重いものとなり、代表となった名主も費用に困窮したという実態がつづられていますが、それでもこの裁判に敗けて山の使用権が無くなれば村の生活が成り立たなくなるということから、粘り強く当たっています。
そのため、勝訴した場合の担当者は神社に神として祀られることもありました。
それほど農村にとって周辺の山は重要だったのでしょう。
明治維新の後、明治政府は所有者のはっきりしない入会地などは政府が官有地としてしまうという政策を取ります。
これに対し、農村ではこれまで通り所有権はどうでも使用はできるだろうと楽観し、それに対しては反対はしなかったのですが、政府は官有地への立ち入りも禁止するということになりました。
それに対し農村の反発も強く裁判も起こされたのですが、民有地として認められた例は少なかったのでしょう。
徐々に山林の重要性も薄くなりましたが、その結果が今のような山林の荒廃につながったことになります。
なお、本書の主要な本題とは少し離れますが、当時の山林の状況について書かれているところは参考になります。
現在では多くの山は森林で覆われていますが、かつてはそうではありませんでした。
農村に近い山々は草の採取のために高木は伐採し低木や草地としていたそうです。
木の繁茂を防ぐための野焼きも広く行われていました。
草を常に取り去っていたために近畿では里に近い山ではほとんど木も草もなくなる禿山になるところが多くなりました。
明治になり野焼きの禁止、採草の禁止、植林といった事業が進められ、ようやく山林が戻ったというのが真相です。
現在では宮崎県の山間部にわずかにみられる「焼き畑農業」ですが、かつては広範囲に行われました。
焼き畑とされるのも村の共通利用地の入会地でした。
話し合いでどこを誰が焼き畑にするかを決めて実施していたようです。
焼き畑農業は原始的な形態だと考えられがちですが、実はそうではなく近代の秩序で行われるものでした。
実施するのも困窮した下層農民ではなく、余裕のある上層農民であったようです。
飛騨の国白川郷での焼き畑の推移をみると、初期は江戸時代前期の元禄期までですが、小規模で面積も少なかったようです。
それが徐々に規模を広げ全盛期は明治時代後期でした。
これは全国的に見られるものでした。
農村における周辺の山の利用というものは重要なものであったということが良く分る本でした。