著者は能楽師のかたわら、ほかにも様々な活動をされているようです。
また、本書も能に関連した事柄ばかりでなく、中国古代の甲骨文字やギリシア古典文学についての話題も取り上げられ、非常に広い知識をお持ちと感じさせます。
日本人の身体観というのは良く考えてみるとあいまいな部分も多く、「膝」といっても膝頭のみを指すのではなくて太ももの前部を指すことが多かったり、「肩」といっても首の付け根から肩周りすべてを指すなど、広く捉えることが多かったのですが、現代ではそれと異なる方向性もできているかのようです。
そのような日本人の感覚を能楽に現れる表現を中心に他にも日本の古典、中国やギリシアの古典を検証し振り返るというものです。
「からだ」という言葉は昔はこの意味では使われず、それは「み」と言ったそうです。漢字で言えば「身」であり、「からだ」は実は「空だ」から来ているとか。
現代は健康を求めるあまり極端に走る人々も多いのですが、かつては体にはもっとおおらかな態度で臨んでいました。老齢は老齢なりに花の咲かせ方があるだろうということです。
また「はだか」と言うことに対しても、キリスト教の聖書ではそれ自体が罪であるかのような記述になっていますが、日本の古事記では天岩戸の前でアメノウズメノミコトは神を招くために裸になって踊ります。
近代になっても風呂では混浴が普通であり、恥ずかしいという感覚もなかったようですが、現代になると裸体を見せることは禁止されそれとともに裸を恥じる感覚が強くなってしまったようです。
かかりことば(掛詞)というと古文の授業でさんざん悩まされた人も多いでしょうが、能楽の中にも多く出現するそうです。
「定家」という能の中では、雨宿りをする僧の前に女性が表れて話し始めます。これは実は藤原定家と恋に落ちた式子内親王の亡霊なのですが、その言葉は、
忍ぶることの弱るなる
心のあき(飽き・秋)の花薄
(穂が・二人の関係が)穂に出でそめし契とて
またかれがれ(枯れ枯れ・離れ離れ)の仲となりて
このように掛詞の連続です。縦横にめぐらされた言葉はこの世とあの世を結ぶという意味もあり、行きつ戻りつ能を見る人を異界に引き入れるということです。
日本人の特性かもしれませんが、俳句や和歌の中にまったく「私」というものが入ってこないということがあります。
これは歌の歌詞でもおなじで、「朧月夜」などまったく情景の描写のみなのですが、それが聞く人の感情を非常に刺激してしまい、聞きながら涙を流す人もいます。
ヨーロッパ人では何をするにも「私」が入ってしまい、俳人でパリで俳句の指導をした人によると、一番苦労したのがフランス人の俳句から「私」を取り去ることだったそうです。
これは日本人の思考の中に「私」というものが存在しないのではなく、自然の風景と自分というものが一体となってしまうということなのではないかというのが著者の意見です。
さて、様々な古典から自由自在に引用して組み立てられていますが、中に「言葉の由来」についての説も見られます。これが出典がなく「本当かいな」とちょっと疑問を抱かされることがありました。
「あこがれる」は「あくがれる」から来たということですが、和泉式部は沢の蛍は自分の身から「あくがれた」と書いています。(これは本当でしょう)
あくがれるの「かれる」は「離れる」から来たそうです。したがって、自分の身体から何かが離れることが「あくがれる」だそうです。
そのような語源解釈がかなりたくさん出現します。どこまで信じられるかは良く分かりません。
しかし、能楽と言うあまりなじみのないものの醸し出す香りというものを十分に感じさせてくれるものでした。