爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「商店街はなぜ滅びるのか」新雅史著

著者の新(あらた)さんは本書刊行時(2012年)には学習院大の講師という社会学の研究者ですが、商店街やコンビ二など現代の流通小売業にまつわる社会学的考察を精力的にされている方のようです。

商店街と言うと各地でシャッター商店街と言われているように、ショッピングセンターやコンビ二の隆盛に伴って衰退していく町というイメージが多いようですが、その経緯と言うものはほとんど理解されていないようです。
まず、商店街というものはそれほど古いものではないと言うのが意外な気もします。”商店”自体は江戸時代や場合によっては室町時代から続いており、実際にその当時から営業を続けていると言う老舗もありますが、”商店街”というものはせいぜい20世紀に入ってからの成立だそうです。
しかも商店街の商店というものは、以前の商店と異なり家族経営であることが特色であり、血縁以外の店員というものはほとんどなかったと言うことです。たしかに江戸時代以前の商店というのはその一つ一つがいわば武家の国と同様の社会であり、家族経営などというものではなく、もしも跡継ぎがいなければ養子としてでもつなげていくというものだったということは、数々の時代劇でも描かれていますが、現在の商店街の個人商店というものはそのような継承というものは見られず、息子が継がなければそのまま廃業ということが全国津津浦浦で見られます。そのように前時代にはなかった個人商店の集合と言う形で商店街が形作られ、またその性質上衰えていくというのもこの現代の社会から見て当然のことなのかも知れません。

商店街の成立というのは、20世紀初頭の第1次世界大戦終了後の不況のもとで農村からの離農者が数多く都市に流入してきたところから始まるそうです。自然な動きであればそこで工場などに就職するということもあったのでしょうが、工業も不況でありまた社会構造の変化からその時点では大工場への就職もある程度の教育を受けた新卒者でなければ難しく、農業を離れて一家で都市に流れ込んだ人達には入り込むことが難しくなっていました。そういう人達の受け皿としては零細小売商しかなかったということです。
しかしそのような行動を取る人数が多数に上ったため、都市では小売商の過剰という状況に陥ってしまい、またほとんど商品知識もないまま商売を始めているために質も悪化してしまったようです。
消費者のそのような傾向への不安から公設市場設置などの動きもあり、またちょうどその頃には都市には近代的な百貨店の開店も続きました。そのような中で零細小売商というものは規制するばかりではなく保護する必要も出てきたわけです。
そのような時代の中で、百貨店や市場との競争もある中でできるだけ零細小売商を育成すると言う目的で、そういった小売商の中でも比較的力のある店を統合して地域の一角に商店街と言うものを作り上げていったということです。それはすでに昭和もだいぶ経過して戦争の直前という時期でした。当時の報道には「横の百貨店」という言葉が使われ、百貨店に対抗してできていたと言う経緯が良く分かります。
しかし、時代は戦争に向けての総力体制に入り小売業も統制ということになりましたが、商店街を中心としたグループが行政が認めた公式となってきました。それが戦後まで長く続いたことがその後の軋轢の一因にもなったようです。

第二次大戦終了後には経済の大混乱に陥り、良く知られているように引揚者や退役軍人などが露天商を始めると言うこともあったようです。また極度のインフレになり小売商と消費者の争いも起こるようになりました。そのような中で商店街の商店主たちは一定の力を持った圧力団体となり、政府にいろいろな政策の実施を迫ります。大規模店舗の規制を強め、中小企業団体法を制定させ、商工会に権限を持たせると言うことにつながります。この状態が高度成長の時期を通じて続いていくということになります。
このような状況は大規模化していく製造業と小売商が結びつき、製造業主導の流通と言う状態が強化されると言うことになりました。大手の電機メーカーの協力店が商店街に並び、大手酒造メーカーのジャンパーを着た酒販店主が酒を配達すると言う時代だったわけです。
しかし、それを疑問視した人達がスーパーマーケット開設と言う方向に動きました。ダイエーの中内さんなどが先駆者として様々な闘争を繰り広げることになります。価格破壊という合言葉で、それまでのメーカーが決めた価格でそのまま売るだけの小売業からスーパーの考えで価格をつけて売ると言う小売主導の流通への変換を目指しました。
これはメーカーとの大規模な衝突に発展し、出荷停止などの措置も起こりましたがその後のことは現状を見れば明らかです。

小売商はこのような社会の動きの中で、スーパー出店を阻止すると言う方向で対抗しました。そこでは大店法を強化させると言う政府を動かした対抗策を使ったわけです。しかし、それがちょうど物価がぐんぐんと上昇していく時期だったということもあり、既得権益を主張し利益を上げているというように消費者層から反発を招き、政府もそれを抑えきれなくなっていきます。
ちょうどその頃オイルショックが起こり、世界中の経済が大転換することになります。日本はそこから必死に立ち上がろうとして数々の対策をとり、世界に先駆けて復活します。しかしそのことが逆に一気に世界の富が日本に集中することとなり、バブルへとつながるのですが、海外からの批判も大きくなり日本型といわれる様々な構造に対する批判を受け改革が迫られます。流通小売業の変革もその一つでした。

そんな最中、1974年にセブンイレブンの1号店が開店します。コンビ二もアメリカ発の業態ですが、どんどんと日本に合った形に進化して行き、広がっていきます。アメリカではほとんどがガソリンスタンドと併設され敷地面積も広いようですが、日本では車で来るというよりは徒歩や自転車で来店する客向けの構造となり、品揃えも全く異なった形で発展していきました。何よりの違いはアメリカでは店舗はチェーンが保有し経営者を雇うというところが、日本では店舗敷地は経営者が所有し、経営手法だけ教える形になったことです。このためにコンビ二経営者はそれまでの商店街の商店主がそのまま勤めると言う形が普通になりました。特に酒販免許の関係でそれまでの酒販店がコンビニ化というのが普通だったようです。

さらにアメリカなどから日本国内での公共事業増加の圧力を受け、全国的に道路建設が増加し特にバイパス道路の建設が進みました。これらの道路の沿線には大規模な工業用地も設置されましたが、その頃には工場は海外進出が普通となりそのような工業用地は使われることがなくなってしまいました。それを利用して大規模商業施設がどんどんと作られるようになってしまいました。現在はどのような田舎町に行ってもその郊外には決まってショッピングモールなどができています。これが商店街の息の根を止めることになってしまいました。

著者の両親は北九州市で以前は酒販店を経営しており、その後コンビ二に業態を変えていまだに商売を続けていらっしゃるそうです。そのようなご自分の体験から見て、商店街の衰退の一因は戦後の時期に商店街の商店主たちが政治的な「恥知らずな圧力団体」と化したことだと言う指摘は重たいものがあるようです。そのような中で今後も商店街というものを守っていく価値があるのかどうか、それは商業・流通という問題だけではなく地域全体をどのように維持していくかという問題になってくるようです。