副題は「マキアヴェッリは何を考えたか」です。とはいっても全生涯で思考遍歴を辿ったと言う意味ではなく、フィレンツェ官吏を解任された1512年から亡くなる1527年までを編年法でたどっているのですが、いろいろと政治関係の活動はしていたものの、公職には就けず、著述や請負仕事で金を稼ぎながら思想を深めていったと言う点でこう名づけられました。
フィレンツェ政界へのメディチ家復帰で公職を解かれたマキアヴェッリですが、手を尽くしてなんとかメディチに取り入ろうとしたようです。書き上げた君主論はメディチ家の当主ロレンツォに献呈されます。
しかし、それと並行してフィレンツェの青年のグループとも交流し、思想的な指導者とまでは行かなくても先輩格として意見するような立場になっていたようです。しかし、そのグループが反メディチクーデターを企てると言う事件が起こり、マキアヴェッリは関与した証拠は無く訴追もされませんでしたが、かえって疎外感を持つことになります。
膨大な書簡が残っている友人のヴェットーリとグイッチャルディーニは共に公職の上でも恵まれた境遇で、特にグイッチャルディーニはフィレンツェの軍を率いてスペインと争うことになります。しかし、その同盟軍の一応の盟主であったローマ法王クレメンテのどうしようもないほどの無能さでスペインに完全に敗北しローマは完全に略奪され、フィレンツェなどの都市国家も没落します。その最後にマキアヴェッリも病没(憤死?)してしまいます。イタリアのルネサンスが完全に消え去った時と同時になります。
マキアヴェッリは死後その著作を通して非常な名声を得ることになりましたが、その生存中および死後の子供たちの境遇は悲惨なもので、わずかな後に男系子孫はすべて死んでしまったようです。しかし、現在のフィレンツェにあるマキアヴェッリの壮大な墓ははるか後の時代にイギリス人のファンが建てたということです。まあ思想家としては幸福だったのかもしれませんが、本人は決してそうは思っていなかったでしょう。