網野さんは中世日本史が専門の歴史家でしたが、ほとんどが農民であったという従来の中世史観に異議を唱え、様々な職業、卑賎なものとされた人々など多くの人が形作ってきたのが日本であるという見方を提唱しました。
この本に書かれているのは、「波」という雑誌に連載された「歴史の中の言葉」というシリーズをまとめたものですが、あとがきにも書かれているようにその途中でガンが見つかり手術闘病、遅れた末にようやく完成したということです。
しかし、その後まもなくお亡くなりになりました。
我々が無意識に現在の使用法で使っている言葉が、歴史の中に出てきてもあまり疑問を持たずに現在の意味で考えてしまいがちです。
しかし、意味や用法が時代とともに大きく変化していく言葉などは数多くあり、注意が必要のようです。
「日本」という国号は、中国の史書にも記されているようにある一時期から倭またはヤマトといった国号から変えたものでしょうが、その意味は「日出ずるところ」であるのは間違いないでしょう。
しかし、自分の住むところが「日いずるところ」であれば、そのどこから太陽が出ているのでしょうか。
日いずるところから見れば、実際には東の海の彼方から朝日が昇ってきます。
つまり、この「日出ずるところ」というのはあくまでも中国から見たものでしかありません。
そんな言葉を国号につけるだろうかという、疑問を持った人は何人かいたようです。
しかし、それでもやはり「中国から見た日の出の方向」という意味であるのは間違いないようで、それを意識して付けられたものでしょう。
「普通の人々」のことをなんと呼ぶか。
これもよく考えるとけっこう悩ましい問題があります。
よく使われるのは「国民」ですが、これは歴史的には「国」が武蔵国、相模国などを示す言葉であった以上、国民もそこの人々、特に侍クラスの人を呼ぶ「国人」という言葉と同じ意味で使われていました。
「国」を「日本国」の意味に使うようになったのは近代以降ですので、歴史の新しい用法です。
「人民」という方が古くから「日本全体の民」という意味で使われていたようですが、これはその後の「中華人民共和国」などの社会主義国の国名で使われるようになってしまい、使いずらくなった言葉です。
「市民」というのもよく使われるようになっていますが、英語の「シビル」を訳したもので、どうしてもその言葉には欧米臭さ、インテリ臭さを感じてしまいます。
おそらく、地方の村の住人は自分たちのことを「市民」とは言わないでしょう。
「庶民」という言葉もありますが、これは公的な文書には使いづらいらしくほとんど表れません。
こういったどれをとっても一長一短の中で、柳田国男と渋沢敬三が使ったのが「常民」でした。
渋沢敬三は自ら「日本常民文化研究所」を設立したのですが、死後存続が難しくなり神奈川大学の付属研究所となってしまいました。
「百姓」は今では「農民」と同義というのが普通の感覚ですが、歴史的にはそういった使い方はされず「普通の人」という意味で使われてきました。
古代には「百姓」という字に「おおみたから」という読み仮名をふられた事例があるそうです。
官人ではない人々を百姓と言うというのが用法だったようです。
「百姓」を「ひゃくせい」と読むと古代用法、「ひゃくしょう」と読むと農民の意味で近世以降の用法だと考えている人もいますが、そのような使い分けがされたという記録はないようです。
どうやら、古代から中世には農民ではない「百姓」が数多くいたようです。
漁業、林業、製造業など多くの職業を専門にする人々が、その当時からもかなり多数存在していました。
こういった人々が増加したのも中世以降であるというのが一般的な印象でしょうが、どうやら違うようです。
ただし、朝廷としてはやはり「農本主義」を基本とするという姿勢であるのは間違いなく、漁業者や林業者に対しても班田を与えようとした証拠もあり、志摩の漁人にも田を与えようとしても近くにはなく、仕方なく尾張の田を与えたという記録があります。
もちろん、志摩の漁人が尾張まで行ってその田を耕すことなどできないので、人に貸すということになってしまいました。
また、税である年貢は米というのも一般的なものではなく、全体の3分の2以上は米以外のものを租税として集めたようです。
特に東国では米を納めるところの方が少なくほとんどが繊維製品や金、馬といったものでした。
賤民、不自由民については、網野さんもかなり詳しく研究された分野です。
その中でも特殊な技能を身に着けた「職能民」と呼ばれる人々は古代にはかなり高い地位に位置付けられていました。
綾や錦を織る人々、鋳物を作る人々などは朝廷が直接管理していました。
中には博打を専門とする人々、遊女もその中に含まれていました。
しかし、朝廷の権力が下落し資金も出なくなると彼らは自立しなければなりません。
そこからがこういった職能民と言う人々の地位の下降につながっていきます。
特に、家畜の処理、死体の埋葬、罪人の処刑などといった「穢れ」を扱う人々はそのために蔑視を受けることとなり、差別につながります。
こういった経緯から、差別意識は日本の中でも大きく異なり、沖縄と北海道には被差別部落は無く、また東日本でもあることはあるものの、少ないということになりました。
これには、歴史的に馬を多く飼っていた牧という施設が東日本に多く、家畜の取り扱いも普通のことであったので、ことさらそれを担う人々を差別する必要もなかったということがあるようです。
しかし、それでも西日本においても被差別民の下降はせいぜい15世紀頃からであり、そして身分制として固定されたのは江戸時代になってからのようです。
歴史上の言葉の変化ということでは他にも面白い例があげられています。
「落とし物」は誰のものでもない。
落とすという言葉は位置の高いところから低いところへ落下させるという意味で使われますが、かつては「所有権がなくなる」という意味もありました。
もちろん、中世でも今と同様に「物が上から下へと急激に移動させる」ことを「落とす」と言う用法もあったのですが、それ以外にも使われました。
「落とし取る」という言葉遣いがあり、これは「奪い取る」とほぼ同様であったようです。
これは「所有権を切り離す」という意味が下にあるからで、それを取るのは勝手だからということでした。
自由と言う言葉も、今は普通は西洋のフリーダムあるいはリバティの訳語という意味が普通ですが、中世以前でも使われていました。
ただし、その意味は「わがまま勝手の意、秩序を形作るものに逆らい乱そうとすること」だったそうです。
このため、「自由狼藉」などと使われ、横暴なふるまいをすることだったとか。
網野さんの歴史学というものは、言葉の細かい使い方まで気を使って作り上げてきたものだったようです。