爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「悪の引用句辞典」鹿島茂著

欧米では有名な字句を引用すると言うことが教養の証しのようになっていて、どこの家庭にも引用句辞典というものが備えてあるそうです。
また、フランスでは大学受験資格のバカロレア試験というもので、課題論文を書く科目があるそうなのですが、その評価ではいかに引用句を間違いなくしかもたくさん使えるかということが重視され、オリジナリティーがあるということなどはあまり問題とされなかったようにも見えたそうです。
とはいえ、フランス文学者の著者がこの本で書きたかったことは、そのような引用句というものを数多く例示すると言うことではなく、まさにそのようなフランス流の引用句を駆使して今の世相を嘆くことだったようです。

一編が4ページで最初に引用した文章の出典を示し、そのあとに著者の書きたかったことを書く(もっぱら嘆いているようです)といった体裁で、70篇以上の文章からなっていますが、これは新聞紙上で連載されたものをもとに加筆、再構成したからということです。

テーマごとにまとめられており、「好き嫌いが決める政治」「強欲資本主義と財政破綻」「成熟を拒否する日本人」などといった興味深そうな表題のもと、それぞれ10篇以上のエッセイが書かれていますが、中でも粒ぞろいだったのは「教育の顧客満足度」に入れられた文章でした。これは著者が大学教授として常日頃感じていることなのでしょう。
シェークスピアのリア王の中に「無から生じるものは無だけ」と言う言葉があり、これを引用した著者の筆は、現代日本に多発する登校拒否、引きこもりに及びます。これらは「無」であり、それをいくら続けていても「無」から抜け出せないのは明らかということです。そのような人々がそういった行為を選んだのは「子供の損得勘定」によるということです。それを甘やかして見ていてもどうにもならない。無理やりでも教育と労働の社会に引き戻すことが親の責任だということです。
エミール・デュルケムの「道徳教育論」からは、現代の日本の教育というものが少子化で生徒獲得に追われてゆがめられている実情を記しています。わがままなお客様(生徒・学生)の気に入るような授業をしなければ客が集まらないという実態が、顧客満足度ばかりを重視するかのようなおかしな教育現状にしてしまった要因だそうです。
すぐに社会で役に立つなどということが重視され、しかもそれは子供の未熟な判断基準によるものに過ぎず、そのために幼稚な段階の実践教育といったものばかりが幅を利かせるということになってきています。とっつきにくい基礎科目などは人気が無く、その結果大学などはレベル低下につながっていくそうです。
モンテーニュの文章に、「子供を親の膝元で育てるのは正しくないということは誰もが認める」というものがあるそうです。そのため、ヨーロッパでは貴族などは必ず家庭でも家庭教師に全面的に子供の教育を任せるという習慣があったそうなのですが、現代日本の親はこれをまったく理解できないだろうと言うことです。モンスターペアレントなるものの出現というものもそのような日本の事情の極端な発現のようです。

ルース・ベネディクトは「菊と刀」の中で日本の子供のしつけの劇的変換というものを提示しました。ここが日本で「いじめ」というものがはびこる基にもなっているということです。日本では、世間に属するということが必須であり、そこをついて「のけ者にする」ということがいじめとして行われるという、非常に構造的な性格を持っているそうです。したがって、「みんな仲良く」ということを強調するほどいじめがひどくなるそうです。
つまり、「いじめ」は「仲良し」から生まれるというのが日本のパラドックスだということです。

ナポレオン時代の政治家、タレーランが言ったといわれる「これが終わりの始まりだ」でこの本も終わっています。現代はいろいろな「終わり」が今始まっているところのようです。