爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「民族という名の宗教」なだいなだ著

なだいなださんという、精神科医にして作家であった方のお名前はよく知っていましたが、どのような本を書かれたかということはほとんど知識がありませんでした。

 

著書を初めて手に取ったわけですが、この本は「民族」という、誰もが知っているようで本当のところは知らないというものについて、非常に優れた解析を施しているというものです。

 

久々の掘り出し物というところでしょうか。

 

本書は1992年の出版です。ソ連を始めとする社会主義国が崩壊してまだ間もないところでしたが、なださんもかつては社会主義共産主義というものに共感を持っていたようです。

それについての記述もありますが、本書ではそれは脇役のようです。

 

 

人間は動物の中でも最も弱いと言ってもよいほどの、肉体的武器を持たない動物です。

それが他の動物を圧倒する力を持つようになったのは、「一人では何もできないから集団となった」ことによります。

道具の使用ということもその理由に挙げられますが、実は道具を使い出す前からすでに集団化による力の強化が起きており、こちらの方が根源的な要素であったようです。

 

文明化し、国や社会を作ってからはさらに人数を集めることが大事になってきます。

戦争で勝つにも多くの人を集めた方が有利です。政治の世界でも少しでも人数を集めた方が力を持ちます。

 

類人猿も狩りのために群を作ることがあります。

しかし、その数はせいぜい数十といったところです。

人間はその集団同士が争うことを始めたために、どんどんと集団が大きくなっていきました。

言わば、集団と集団の大きさ比べが激しくなったのが文明化だったようです。

 

 

文明の最初の頃の集団は何でまとまっていたかと言えば、それは血族でした。

家族よりは大きく、先祖が同じという認識を持った集団でした。

これは、近親結婚のタブーというものを持つために必要だったものと言えます。

 

最初の頃の集団は血族というものを頼りに結束しましたが、それと同時に言語が統一性を高める役割を強く果たしました。

その為に、世界のどこの言語でも古代の方が敬語体系が複雑であったようです。

礼儀作法というものも複雑な仕組みを作っていました。

しかし、社会がさらに大きくなっていくとそういったものは簡略化されていきました。

若いものは敬語を知らないという嘆きは、古代から世界中で言われていたようです。

 

 

そのような古代社会が2000年ほど前に世界各地で巨大化していきます。

漢帝国ローマ帝国ペルシャ帝国、マガタ帝国など、各地に「帝国」と呼ばれる国が発達します。

それらはどこでも寸前までは統一されない部族の連合体でした。しかしそのうちの一つが力をつけ他を従えて統一しました。

彼らはまるで闘うことが本能であるように戦争をし、他を滅ぼして国を広げていきました。

そして、それが限界まで達したところでパックス・ロマーナというような平和状態になりました。

現代もパックス・アメリカーナと呼ばれています。平和のために戦争をするというのが一見正しい解釈のようにも見えます。

 

帝国規模の集団にはそれをまとめるイデオロギーが必要です。

そのために、世界宗教というものも作られました。

キリスト教イスラム教、儒教はそういった帝国維持のための必要あって発展しました。

 

 

話はちょうどこの本の執筆当時に大きな変化であった、ソ連崩壊、社会主義の敗北に入ります。

ユーゴスラビア解体のあとに激しい内戦が起きてしまいました。

彼らは民族同士で争っているように見えます。

 

民族とは、英語ではnationと言います。しかし、nationには他には「国民・国家・民族・種族」といった意味もあります。

同じ言葉を使いながら、その対象はかなり幅が広くなっています。

 

19世紀には、イギリス・フランスは統一され強力な政体となってきましたが、ドイツやイタリアはまだ小さな王国に分かれていました。

それらの王国の国民というものは、nationというよりは部族folkというのがふさわしい程度の集団でした。

先行したフランスでは王はすでに王の王、産業革命により近代社会となった国にふさわしい体制を築きつつありました。

そのような強力な国家をまとめるイデオロギー国民国家というものでした。

 

イギリス人・フランス人というものも実はそのときに作られたフィクションだというものです。

そのフィクションを支えるものが、英語、フランス語といった言語です。これをしゃべるからイギリス人、フランス人であるとしたものです。

ドイツやイタリアなど統一の遅れた地域でも、ドイツ語を話す、イタリア語を話す、人々の地域がまとまって国とならなければならないという動きになります。

 

日本も明治維新の直前には日本という一つの国という意識ができてきました。

しかし、それまでは何百もの藩からなる連合王国だと言える状況でした。

しかし、明治維新で一つの日本という意識を徹底させるために社会の仕組みを大きく変えるとともに、日本語も統一して標準語というものを作り(極めて人工的に)それを強制することで社会自体の統一に向けていったわけです。

 

 

ユーゴスラビア社会主義化以前にはバラバラに分かれた地域だったのですが、チトーがナチとの闘争の過程で統一を図り、その後社会主義となって一応の安定を見ました。

しかし、チトー任せであったためにその死後はたがが緩み社会主義崩壊で完全に解体しさらに憎しみが増大し内戦となりました。

社会主義というものが、そのような民族対決を抑えていたのは事実です。それが経済効率だけの問題で崩壊してしまいました。

 

 

今のような国民国家規模の国々の大きさが必要となったのは、産業革命による生産力の向上が影響したということです。

製品を売る市場が大きくならなければならず、それを求めて勢力範囲の拡大に努めました。

そこには、それまでの各地域の違いというものを矯正し一つの国家にふさわしい一つの国民とするべく強制力を行使することになります。

 

「同じ日本人」という意識を持たされることになりました。(日本人だけでなく他の国でも同様です)

しかし、実際はどこの国にも少数の異邦人が居り、日本にもそういった人々は居るわけです。

彼らに対する差別意識が問題となります。

また、「日本人は単一民族」といった意識が強まり、少数派に対するさらなる圧力ともなります。

近代化というものは単一化の強制であるともいえます。

 

 

集団というもの、民族というもの、国民というものについて、深く考えさせる内容ですが、文章は平易に分かりやすく書かれているものでした。

 

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)

 

 

 

「なぜ日本人は学ばなくなったのか」齋藤孝著

教育学者の齋藤さんですが、現代日本人の勤勉さの喪失、とりわけ若者の学問に対する情熱が失われていくことに対して非常な危機感を持っています。

 

学ぶ意欲を失いただひたすら受け身の快楽のみを求める若者を見ていると日本人が壊れていくと感じるそうです。

 

これは1960年代、70年代にもその兆候がありました。しかし、何と言っても80年代のバブル期に決定的にタガが外れてしまったと見ています。

 

本書はなんとかそれを取り戻したいと、中高生をも対象として書かれています。これを読んで若者が学ぶ意欲を取り戻せれば救われるかもということでしょうが、さてどうでしょう。

 

 

古代から受け継がれてきた教えが「仏法僧を敬う」というものであり、これは仏教に留まらず他の社会にも波及して目上の者、先生・師を敬うという態度であり、さらに教養あるものを敬う「レスペクト社会」と言えるものでした。

しかし、現代では「おもしろいもの」だけを求め「バカでもいいじゃないか」ということになっています。

自分がバカなだけではなく、テレビに大学教授などを引きずり出しわざわざ失敗させて笑いものにするという番組も横行しています。

 

 

著者は20年以上大学で学生を見てきました。

学生たちは最近ではどうやら「濃い交わり」というものを避けるようになっています。

以前は誰かの下宿に集まり一晩中飲み明かして語るというのが普通でした。

しかし、今では自分のライフスタイルから出ようとせずにそれを壊されない程度の浅い交わりしかしないようです。

また、同じ学生であっても新たな友人を作るということが苦手のようで、付き合うのは中高からの友人だけというのも珍しくありません。

 

また、大学生活の目的というものが、「良い会社に就職する」ことだけになってしまい、「知」と出会わないまま卒業していくようにもなってしまいました。

読書をする時間もほとんどなく、専門書どころか新書も読むことがない学生が多いようです。

 

そうやってなんとか就職してもその会社に勤め続けることができずにすぐに退職する者も多くなっています。

 

こういった状況は「心の不良債権」とでも言うべきものです。経済の不良債権よりはよほど問題が大きいのかもしれません。

 

 

このような「学び」の衰退は戦後のアメリカ化に原因があるというのが著者の見方です。

哲学を生み出したドイツやイギリスなどの文化を追いやったのは、アメリカの即物的な文化でした。

アメリカ文化といっても優れた面はあります。それは、フロンティアスピリットを尊敬し、個人主義を尊重するという点です。

しかし、こういった面を取り入れることはなく、アメリカ文化の摂取は極めて安易な面だけにとどまりました。

その結果が日本人の知の崩壊だということです。

 

 

著者は現在50代後半ですが、成長の過程でかつての旧制高校文化に憧れたそうです。

そこでは形だけかもしれませんが教養に対するあこがれがあり、それを追求していました。

そのような学ぶことを大切に思う気持ちを若者に取り戻してほしいというものです。

 

 

 

 

まあ、著者のご意見はご意見として、社会の方向性についての大きな問題が山積している中で、若者に教養を身につけさせるだけではどうしようもないように感じます。

まずそこから変えなければいくら本を読めと言っても無理でしょうね。

「水危機 ほんとうの話」沖大幹著

東京大学生技研教授という沖さんは、水文学(スイモンガク)研究者を自称して居られます。

 

水文学とは、天文学や人文学と同様に、水に関するすべての事象を扱う学問ということです。

英語では、HYDROLOGYというもので、ユネスコでもその推進が定められているそうです。

(あまり知られていないかな)

 

本書は水に関して様々な方向から話を進めていますが、多くの記述があるもののそのほとんどはこの20年間に新たな知見として得られてものということであり、この分野の変化や進展は非常に大きなものがありそうです。

 

なお、著者あとがきによれば本書は一般人向けに現代の変化を中心に記述したために、文系的な表現が多くなったものの、水文学自体は理系学問としての性質が多いということです。

 

 

 各章は水に関するさまざまな話題を提供していますが、全体をとおした主張というものは無いようなので、各章からそれぞれ興味深いエピソードを引用しておきます。

 

第1章 水惑星の文明

 地球の表層の水のほどんど、96.5%は海洋にあります。その次に多いのが氷で、南極やグリーンランドにあるもの。そして地下水も氷と同じくらいあります。

 地下水のうち特に循環速度が遅いものが化石水と呼ばれます。

 速い速度で循環している水分だけが人間が利用している水ということになりますが、そのうち最も多いのは土壌に含まれる水分だそうです。

 

第2章 水、食料、エネルギー

 食料の生産には大量の水が使われるということで、食料の輸出入を考える上で「仮想水」という考え方が広く知られるようになりました。

 著者はその初期からこういった思考法の普及に関わっており、計算方法などの提唱も行ってきたそうでうす。

 日本では水が少ないから食料を輸入するということはなく、農産に適した平地が少ないからということなので、あまり仮想水の量を云々することは意味が無いそうです。

 

第3章 日本の水と文化

 日本の降水量は季節を問わずに多く、熱帯地方に匹敵するものです。しかし、国民人口が多いために一人あたりの水量と考えるとそれほど多いわけではなくイギリスやイランと同程度とか。

 

第4章 水循環の理(ことわり)

 木を植えると水源涵養機能によって水も豊かになるという印象があります。

しかし、これは「美しい誤解」というもののようです。

まず、木があると水が豊富になるのではなく、水が豊富な場所に木が生えるのです。

木が成長するには多くの水が必要とされ、実際に20世紀後半に中国で大規模に植林をされたら黄河に流れる水量が減少し、断流といって河川流量が無くなる現象が起きてしまいました。

半乾燥地にわざわざ植林するのは百害あって一利なしだそうです。

ポプラなどは地下水にまで根を伸ばして地下水位を下げてしまうこともあるそうです。

 

 都市洪水が最近頻発していますが、これは降水量が増えたからというよりは、住宅や道路が増えて雨水が地中に浸透することがなくすべてが川に排水されるようになり、急激に水位が上がるようになったためです。

 神奈川県の鶴見川の場合、1958年にはわずか10%が都市化面積率であったものが、1995年には85%になりました。そのため、既往最大雨量に対する洪水の到達時間が10時間であったものが3時間にまで短縮されました。そのため、ピーク流量が増加し以前であれば100年に一度の洪水が3年に一度は発生する可能性があるそうです。

 

第5章 水危機の虚実

 水危機といっても、地球から水がなくなってしまうのはおそらく数十億年先の話です。

 ここで水危機というのは、人間に使える真水が無くなるということです。

 それも、水の量が無くなるということではなく、きれいな水が無くなるということです。

 都市に人口があつまれば排出される汚濁物質も増加し、水も汚染されます。

 環境容量を超えて都市に人が集まることが危機です。

 

 しかし、世界人口はどうやら遠からずピークを迎え徐々に減少しそうです。

人口爆発による人類破滅は起きずに済みそうですが、水に関して言えばその供給循環装置の老朽化が問題となります。

これに相応の投資をすることが必要です。

 

 なお、最近北海道などで地下水豊富な森林などを中国など海外企業が買うという動きがあり、水資源の危機と言われることがありますが、いくら土地を買っても水を輸送するのは大変なコストがかかり企業化が成り立つことはあまり考えられません。

 産業が無くて困っているところに海外からでも資本投下がされるのは歓迎すべきことで、過敏に反応することはないと考えられます。

 

第6章 水問題の解決に向けて

 水をきれいにすることが「水を作る」ということです。

民間企業が水ビジネスと言って参入する動きもありますが、その利益は限られたものであまり旨味は大きくないようです。

 

 

水危機 ほんとうの話(新潮選書)

水危機 ほんとうの話(新潮選書)

 

 

水について、間違った思い込みによる誤解がかなりありそうです。

 

「ピント調節機能食品」で重篤な健康被害という情報

「安心?!食べ物情報」で、「ピント調節機能食品」による重篤な健康被害があったという記事がでていました。

 

http://food.kenji.ne.jp/review/review908.html

 

どうやら東京都の消費生活センターの危害情報が元ネタのようです。

 

http://www.shouhiseikatu.metro.tokyo.jp/sodan/tokei/documents/theme_2903.pdf

 

渡辺宏さんも書かれているように、こういった情報はマスコミには出にくいものということで、詳細はよく分かりません。

東京都の情報でも原因食品の特定はできず、被害者が40代男性であること、眼のピント調節に効く機能性食品の60粒入り1袋を貰い服用した所「薬物性肝炎」にかかったということ程度しか分かりません。

 

「毒にも薬にもならないのが機能性表示食品」とこれまでも何度も批判してきましたが、「毒になってしまった」ものが出てしまいました。

 

これが含まれている主要成分によるものなのか、不純物によるものなのかも特定はできませんが、極めて危険なものであるのは間違いありません。

 

誰でもこのような反応を示すということではないのですが、個人により影響が特に強く出るということは、稀にあるようで、他の食品でも肝炎による死亡者が出たということは記憶があります。

 

 

こういった類の「健康食品」は盛んにコマーシャルが流され精力的に売り込みがされています。(だからこそ、このニュースもマスコミに載りにくい)

服用者が増えればこういった事故も続いて起きる可能性もあるでしょう。

 

被害者がなんとか治療で回復したそうですが、よりひどい被害が出る前に考えるべきでなないでしょうか。

「輸入学問の功罪 この翻訳わかりますか?」鈴木直著

本書副題から、特に哲学書などに見られる直訳調のわかりにくい翻訳を問題とした本かと思いましたが、とんでもなかった。

その内容は非常に広範囲に広がり、ドイツや明治日本の学問の広がり、教養主義、カントやヘーゲルの学問についてなど、幅広くしかも固く論じています。

 

とても、新書版の本には入れ込めないような広く深いものを無理やり詰め込んだとも感じます。

簡単な内容かと思って手にした人の中には途中であきらめた人も居るのでは。

 

著者は近代ドイツ思想史が専門という、大学教授で、特に近代化における文化干渉にご興味がお有りということです。

したがって、日本の特にドイツ哲学書の翻訳がなぜこのように直訳にこだわったかということも、単に語学力の低さに解決させるのではなく、心理の底に流れるものまで洞察するというものになっています。

 

しかし、哲学というのは私の教養の中にはほとんど入っていないものだったために、すべてを理解するのは無理でした。したがって、一部のみの解説・感想となります。

 

 

 本書冒頭は、マルクス資本論の翻訳の引用です。

引かれているのは、それほど古い時代のものではなく、戦後の向坂逸郎訳のものです。

しかし、硬い直訳調の訳文でしかも何がどれを指すかもわかりづらいというものです。

著者が試みに同じ文章を訳してみると、難しいのは仕方ないにしてもまだ頭に入りやすくなります。

 

資本論は20世紀初頭になって日本でも数人が翻訳に取り組み出版されるようになりました。

その中で、高畠素之という人の訳したものが1924年に出版されています。

高畠は大学研究者ではなく、社会主義雑誌などを編集発行していた市井の文人と言うべき人で、ドイツ語の勉強も独学で行いました。

しかし、彼の訳した資本論は文章の意味も理解しやすく、一般人までを対象としたものになっていたようです。

 

その高畠訳に対して、三木清は文法的に問題ありと批判を加えました。

逐語訳がより正確であり、そちらを取るべきという論法です。

こういった批判の上に、その後の向坂訳も立っているわけです。

 

本書の次章はドイツ近代化の詳細な解説(細かすぎて難しすぎます)に入りますが、そこは略。

 

日本の近代化が次に述べられています。

江戸時代にも内からの近代化というものが徐々に進んでいました。

しかし、明治に開国するや西欧からの圧倒的な流入に振り回されることになります。

 

その範囲は法律思想などから、建築土木、医学などあらゆる分野に及んでいます。

そして、それらの外国語書物をすべて翻訳して日本語化しているのですが、それが極めて短時間に進んでいたということも、それだけ外国語習得を必死に行った人々が多数居たという証拠になります。

 

この時期は上からの近代化というべきものでした。

それを実施したのは、討幕にあたった薩長などの地方雄藩の、それも下級士族でした。

彼らは多くの武士を政権から追放したために、江戸時代の文化というものも多くを捨て去ったことになります。

 

そして、民衆に対しては植民地さながらの圧迫を加えました。

 

彼らの権力に追随する後継者養成というものが必要となり、国家による高等教育制度整備が進みました。

 

これが、その後に続く輸入学問の受容、そして翻訳文化の形態に大きな影響を与えているというのが著者の見解です。

 

そこでは、欧米とは異なりジャーナリズムとアカデミズムの乖離というものも激しく起こりました。ジャーナリズムに属する人は一段低く見なされることとなり、彼らが民衆向けに分かりやすく報道するということも貶められたことになります。

逆に、アカデミズムの分野ではことさら難解に文書をひねることが必要となっていきます。

 

 

このような翻訳文化というものは、戦前だけのものではなく戦後になっても長い間強い影響を持っていたようです。

 

 

現代では教養というものが価値を亡くしてしまったという論評もありますが、本書を見るとその教養主義も問題を含むものであったということに気付かされます。

 

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

 

 

再生可能エネルギーは全然「再生可能」ではない。「環境問題を考える」近藤邦明さんが簡明な解説

”環境問題を考える」というサイトを運営されている近藤邦明さんが、いわゆる「再生可能エネルギー」なるものの正体を簡明に解説されています。

http://www.env01.net/fromadmin/contents/2017/2017_02.html#n1176

 

私もこのブログ内で繰り返し主張していますが、「再生可能エネルギー」と言われている太陽光発電風力発電などは、決して「再生」することはできません。

 

太陽からのエネルギーの流れの中で生活していくということは、古代の太陽エネルギーの蓄積である化石燃料エネルギー(石油・石炭・天然ガス)を消費していくことでエネルギー漬けの文明を築いてきた人間の社会を見直していくための目標とも言えるものです。

 

そのために、太陽光や風力というものを無理のない範囲内で使っていくというのは当然なんですが、近藤さんも書かれているように、現在の太陽光発電風力発電はそのプラント建設自体に多大なエネルギーを消費しており、今のところそのエネルギーはすべて化石燃料であるはずです。

 

そして、「再生可能」と言うのならすべて「再生可能エネルギー」変換装置の作り出すエネルギーのみで運営していかなければならないのですが、それは不可能です。

 

近藤さんの挙げておられるエネルギー計算にすべて誤りがないかどうかは分かりませんが、基本的には妥当であり太陽光発電風力発電により生み出されるエネルギーだけでそれらの装置の製造ができるはずもないということは明らかでしょう。

 

近藤さんの主張されているように、これらの「再生可能エネルギー」開発に費やされている化石燃料エネルギーはすべて「無駄使い」です。大切に使っていったほうがよほどマシです。

 

官民挙げてこれに狂奔しているのは、ここでもやはり「経済効果」を狙ってのことでしょう。

健康食品などと同様の仕組みが作用していると思います。

 

飯田線の思い出 写真

先日、「飯田線の思い出」と題して文を書きましたが、たしか昔に写真も撮っていたはずと思い、昔のフィルムを探してみました。

 

親からカメラを与えられて色々と撮りだしたのが中学生の頃で、その当時も飯田線の車両を撮ったことはあったはずですが、そのフィルムは見つからず、高校3年の年に行った時の写真が見つかりました。

 

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撮影場所は元善光寺駅のやや北方と思います。

旧型電気機関車の牽引する貨物列車でした。

 

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もう一枚は少々ネガが傷んでおり変色した部分があります。

車両は詳細は覚えていませんが、旧型国電に先頭部分のみ旧湘南電車型にしたものではないかと思います。

 

8月の暑い頃で、雑草が生い茂っていますが、この付近は40年後の現在ではかなり風景が変わってしまっているようです。

しかし、その向こうに見える山々は変わりなく見えるものと思います。