爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「〈見た目〉で選ばれる人」竹内一郎著

「人は見た目が9割」という本が結構話題になりましたが、これはその著者が書いた続編のような本です。

 

前作はその題名からの印象で、「美人は得だね」というだけの本かと思い、まったく触れても見なかったのですが、実は「非言語コミュニケーション」と言うものを扱ったものだったそうです。

 

著者は劇作家、演出家としても活躍する一方、大学で演劇を教えてもいるという人ですが、そこに共通しているのが「非言語コミュニケーション」つまり仕草や表情などで相手に与える印象というものを操作するということです。

これは、当然のことながら俳優という職業の人たちは意識的にしろ無意識にしろ、工夫を重ねていることなのですが、それ以外の人はほとんど考えもしないことのようです。

そして、それを意識的に向上させることができれば、相手に与える好印象が倍増し、それで「見た目で選ばれる」ということになります。

 

前作もこういった内容であったようですが、編集者からのアドバイスで題名を決めたためやはり私と同じように誤解した人も多かったようです。

 

 

「一目惚れ」と言うものは間違いなく存在するものですが、これは単に「美女・美男子」であるからというのではなく、「自分にとって魅力的」であることを瞬間的に判断するからだそうです。

そこでは、表情を読むということを無意識に行なっています。

 

著者は職業柄、多数の人と初対面で会うということを頻繁に行なっていますが、それらの中には「表情の読めない人」も相当数居ます。大企業の社員などはそういった人が多く、これは「表情を見せない」ことを普段から訓練しているからです。

一方、俳優などは表情を見せなければ話にならないのでそれを見せると言うだけでなく、表情を自分の思い通りに作るということもするわけです。それが演技の訓練でもあります。

しかし、ベテラン俳優といえど、自分の後ろ姿がどう見えるかということは分かりません。そのためにも演出家と言う人たちからの指摘が必要になるそうです。

 

「見た目」と言う言葉を本書でも主題としていますが、じつは「見た目」と言うものは相手にしか分からないものなのです。

したがって、自分の見た目がどうであるかということを感じるためには、自分を見てくれる相手の感情を推し量るしかありません。

そのため、そういった心理的な働きを使う必要がない人たち、大学の先生などはこの能力がかえって衰退してしまい、自分の「見た目」に無頓着な人も多いようです。

 

これは能の創始者とも言える世阿弥の言葉にも残っており、「我見の見」と「離見の見」と言われているそうです。つまり、自分が見る自分の像「我見の見」だけでは芸は判断できず、離れたところから見る観客の「離見の見」を意識していなければならないということです。

 

前書「人は見た目が9割」がヒットした頃、メディアでも取り上げられることもあったそうですが、その中で、「見た目を気にしすぎて子どもも整形手術」なる記事があり著者も驚いたそうです。

「見た目」と言う言葉が誤解され、単に「美醜」という意味だけで使われてしまった。

 

美醜というものはどうしても人の外見を左右しますが、実は若い頃に美人と言われてちやほやされた人ほどその感覚のまま年を取り、中年以降にはただ痛々しいだけになる例が多いようです。

かえって、普通以下の外見でも周りから自分がどう見えているかを意識して、表情や仕草など「見た目」を磨くように努めている人の方が最後には勝つのかもしれません。

 

「見た目」で選ばれる人

「見た目」で選ばれる人

 

 

 

市長・市議選公示

私が住む熊本県南の田舎町では、市長と市議の選挙が日曜に公示されました。次の日曜日の投票まで騒々しい選挙戦が繰り広げられることになります。

 

しかし、いつもながらの中身のない主張ばかり。現職市長は相も変わらず中央とのパイプ、新人は市政刷新。どちらも実質のないことは同様です。

 

市議に至っては地元のための一点張り。

数日前から候補者チラシが入ってきたのですが、一人の候補者のこれまでの実績を誇らしげに書き連ねたものを見れば、道路の補修工事ばかり。それしかないの。

 

まあ、国会議員候補ですら選挙の際に言うことはこれと大して変わらず、公共工事をどれだけ引っ張ってきたかの実績?誇示だけですので、市議ではやむを得ないか。

 

それにさらにイライラさせられるのが、地縁・血縁・出身学校等々のつながりを頼っての勧誘です。

私自身はこちらの出身ではなく、まあ他所者ですので直接話が来ることはほとんどありませんが、これが政治と何の関わりがあるのか、疑問に思う人はいないのでしょうか。

 

このような生活密着だけの事に振り回されながら、選ばれた保守系議員や自民党籍議員は疑いもなく自公政府の手先となるだけです。

ここから自公無恥政府の支持が始まっているということを忘れてはいられません。

 

深い意味はそういうものなんですが、とにかくここ数日間は選挙運動のウグイス嬢(婆?)のキンキン声と時たま交じる候補者自身のダミ声の名前連呼の騒音が不快です。

 

「日本人と中国人」陳舜臣著

 中国人貿易商の子として日本で生まれ、家庭では中国人としての教育を受けながら、学校教育は日本人として受け、日中両方の教養を深く身につけた陳舜臣さんは、その後小説家、著述家として数多くの本を出版されました。

 

最初の頃は推理小説などが多かったようですが、その後、随筆も多く書くようになりました。

本書は新書版は1978年出版ですが、元々の単行本は1971年、長編の随筆集としては著者の最初の作品だそうです。

 

内容は、著者が精通している中国文化と、日本文化の比較、特に相違点に着目したものです。

これにはやはり戦前の日本が、中国大陸を侵略するにあたり、「同文同種」とことさらに唱えてそれの口実としたということがあり、陳さんとしてはその「違う所」を強調しておきたいという思いがあったのでしょうか。

 

数多くの事例をあげていますが、大きなものでは「日本は尊血主義」(つまり血統優先)「中国は人間信頼の”形式主義”」というところでしょう。

やはり、日本の血統主義というのは目立っていたようです。

 

相違点はあれど、隣人として長短補い手を取り合って進んでほしい。日中の狭間に生まれ育って暮らしてきた著者の願いだったのでしょう。

 

 

「ウイルスと地球生命」山内一也著

著者はウイルス研究に長年携わってきた方ですが、その最初の研究対象が天然痘ウイルスであり、その後もずっと病原体としてのウイルスに関わってきました。

一線を退かれた後は一般向けにウイルスについて啓蒙活動をしてきたのですが、その中で読者から「細菌に善玉があるように、ウイルスに善玉があるのか」という質問だったそうです。

 

これで目を開かれ、世界各国の研究報告を見直していくと、2000年に「ヒト内在性レトロウイルスが胎児を守っている」という報告に接し、さらに様々な動物と共生しているウイルスの存在というものに気付かされたそうです。

 

さらに、ヒトなどの生物のゲノム情報の解析が進むにつれ、ヒトゲノムの実に半分以上がウイルスに関係するもののようだということも分かってきました。

 

これまでの、「病原体としてのウイルス」だけを考えていてはウイルスの全体像とは大きく違うものを見ているようです。

 

ウイルスは動物や植物のそれぞれの種と結びついた特有の種があると考えられていますが、ウイルス自体の出現は30億年以上前と考えられています。

猿人の最古のものですら、わずか700万年前、現生人類は20万年前に出現したに過ぎず、現在のヒト固有のウイルスといってもほんの少し過去にヒトに取り付いたもののようです。

 

本書の最初の部分はウイルスの基本知識についてのものですので、そこは略し一番興味を覚えた「病原体以外のウイルスの働き」の項のみ紹介します。

 

ヒツジで研究された「胎児を守るウイルス」に関する研究ですが、母親の胎内で発育する胎児は半分は父親由来の遺伝形質ですので母親の免疫系にとっては異物です。

この免疫反応を無効にする機構があるはずとして、長年研究されてきたのですが、ヒツジのヤーグジークテ病と言う病気を引き起こすウイルスと非常に似た内在性のウイルスが健康なヒツジにも感染しています。

これは病原性はなく、病原性ヤーグジークテウイルスの侵入を阻止すると考えられていました。

そして、それに加えてヒツジが妊娠し受精卵が着床する時期にこのウイルスの作るタンパク質が胎盤形成に重要な役割を果たしていることが証明されたのです。

 

同様な例は他の動物でも見つかっており、ウイルスのプラスの働きがあることが分かってきました。

 

さらに、ウイルスによる遺伝子の伝播が進化にも重要な働きをしてきたということも間違いのないことのようです。

 突然変異と自然選択で進化が起こり新しい種が生まれてくると説明されてきましたが、どうもそれだけでは進化が進まないように見えました。そこにウイルスによる遺伝子の水平移動を考えると進化の速度というものも考えやすいようです。

 

北米の大西洋沿岸に住むウミウシの一種のエリシア・クロロティカという種は光合成をしてエネルギーを得ています。葉緑体を持っているのですが、それにエネルギーを供給する機構は緑藻の遺伝子から来ているそうです。

これも内在性レトロウイルスが持ち込んだ可能性があるそうです。

 

 

ウイルスの種類、数量というものは、これまでの病原体だけを考えてきた常識からは想像できないほど大きいもののようです。

研究されてきたのはヒトや家畜、栽培植物の病原ウイルスのみと言ってもよいほどでした。しかし、これらの動植物に関係するウイルスだけでも非常に多くのものがあり、さらに昆虫や雑草など研究の対象となってこなかった動植物のウイルスも多数存在します。

さらに、生物に直接寄生・共生するウイルス以外にも海水や淡水の中に存在するウイルス粒子と言うものが多数見つかってきています。

 

ウイルスと地球生命 (岩波科学ライブラリー)

ウイルスと地球生命 (岩波科学ライブラリー)

 

 

ウイルスの世界というものは、これまで知られていたものより遥かに大きいようです。

もしかしたら、ここはウイルスの地球であり、動植物はその中に存在させてもらっているだけかも。

「さすらいの仏教語 暮らしに息づく88話」玄侑宗久著

今、普通に使っている言葉で、その起源は仏教語であるというものがかなりあるということは知ってはいました・。

しかし、その意味が本来の仏教でのものと相当変化して現在使われていると言うものが多いようです。

それを著述をしながらも臨済宗住職である著者が列挙し、それについて簡単な説明を加えるという体裁の本です。

 

88の言葉が取り上げられていますが、有名なもの、知っていたもののあり、また初めて聞いたものもありました。

 

初めて聞いたと言う言葉をいくつか紹介しておきます。

 

☆分別 (ふんべつ・”ぶんべつ”では別の意味になってしまう)

 「分別ある大人」といった意味で使われるのが普通のようです。

しかし、仏教語としての本来の意味から言えばこれも使い方が変化してきたものです。

仏教では、「分別」というのは良い意味ではありません。

凡夫がしてしまう、間違った判断のことを「分別」と言います。

したがって、分別を乗り越えた「無分別」の状態が悟りに近いものとして求められています。

現代の社会で言われる「分別」「無分別」は逆の感触を持っているようです。

 

☆台無し

この「台」とは、本来は仏像が置かれる台座のことです。

通常は仏像本体と台座と一体のものとして扱われますが、火事に遭遇したりすると仏像のみを持ち出すということもあります。

この「台座なし」の仏像というものが、いかにも情けないものに見えるそうです。

おそらく、高さが低くなり視線が下がるせいだと思いますが、やはり仏像は少し見上げる角度で有難く見えるように作ってあるそうです。やはり台座なしは「台無し」ということです。

 

☆藪と野暮

藪医者の「藪」、野暮天の「野暮」ですが、これはもともと同じ起源であり、中国で田舎の占い師のことを「田野の巫師」略して「野巫」と称し、それが日本に伝わり「藪」と「野暮」の祖先となったそうです。

 

☆言語道断

現在の使われ方では、「もってのほか」のことを呼ぶことが多いのですが、本来の意味は「言語で言う(道は”言う”の意味)ことが難しいほど不可思議な仏法」のことを褒め讃えた言葉です。

それがなぜか意味が正反対に移ってしまいました。

 

 言葉というものは、うつろいやすいものということでしょうか。

健康食品などの「体験談広告」ようやく規制か。FOOCOM.NETに松永さんが紹介

健康食品などのCMに多用されている「これは消費者の体験談です」という手法がようやく規制されるかもしれないという、話がFOOCOM.NETで松永和紀さんによって紹介されています。

 

www.foocom.net

こういう広告手法を「打ち消し表示」と言うそうです。

誰もがご覧になった記憶があるはずですが、テレビや新聞雑誌のCMなどで、素人のような出演者が(これも怪しいと思うんですけど)「これは効きました」なんて話しているとその画面の隅の方に「これは個人の感想であり効果を保証するものではありません」などという言い訳が表示されるというものです。

おそらく健康食品に限らず多くの個人向け商品で多用されているはずです。

 

松永さんの記事によれば、この「打ち消し表示」に対し、7月14日に消費者庁が実態報告書を出したそうです。

今回の報告で画期的なのは、実際に消費者庁がこの手法のモデルケースを作り、それを一般の人に提示してその反応を調べた所だそうです。

 消費者庁の今回の報告書が画期的なのは、広告(新聞広告と動画広告、ウェブ広告)約500点を集めてどのような打消し広告があるかを解析し、そこからデモ広告を作り、ウェブアンケート調査で消費者1000人に見せて、どのように認識したのか調査を行った点だ。これにより、消費者が初めて広告を見たときに、なにを見てなにを見ないのか、打消し表示がどう受け止められているのかがわかってきた。

 

その結果を見ると、がっかりするようなものです。

 これを、消費者1000人に見せた。すると、44.3%が4つのコメントのいずれかに気づいていた。一方、90.3%は、打消し表示を見落としていた。

 

 では、消費者はこの体験談広告を見て、製品のダイエット効果はどれくらいと認識したのか?
 広告を見て体験談に気づいた回答者(443人)の53.0%は、「『体験談と同じような効果』が得られる人がいる」と思うと回答し、42.2%は「『大体の人』が効果を得られる」と思うと回答した。
 「自分に効果がある」と思うと回答したのは、39.3%だった。

 

つまり、多くの消費者が、CM業者の思惑通りに体験談を事実と認識してしまっているということです。

 

この報告書をどのように消費者庁が使うのかというのはまだ不明です。

しかし、松永さんは消費者庁はかなり本気のようだと感じています。

これを「ガイドライン」のように使う可能性もあるとか。

 

もしかしたら、CMの雰囲気もガラリと変わってくるかもしれません。

それにしても、消費者のレベルの問題かも。

 

脱エネルギー社会の構築に向けて(4) 第一段階脱エネルギー社会の交通体系

前回までの説明で、第一段階脱エネルギー社会(あくまでも「第1段階」です。理想社会にはまだまだ遥かに遠い)の交通体系が少し見えてきたかと思います。

 

大都市圏がどうなるかは触れません。それまでに大地震などで壊滅しなければよかったねという程度のものです。

 

地方都市それぞれが自立し、並立する状態が必要となります。

とはいえ、完全な自給自足などは不可能ですからある程度の地域間物流は確保しなければなりません。

ただし、現在のようなトラック輸送への大幅依存という状況は続けられません。私的なトラック輸送はごく高付加価値の物以外は不可能になるでしょう。

そういった程度に税体系を整備し、さらに道路整備も個々負担とすれば輸送料は莫大なものとなるはずです。

 

つまり、地域間物流は鉄道または船舶ということになります。

したがって、生鮮品輸送などは難しくなりますので、原則としてそういった食料は文字通りの「地産地消」となります。今のような欺瞞の地産地消ではなく。

まあ、生きた魚が高速道路を走り回るという現状の方が奇形であると思ってください。

 

ただし、拠点となる駅や港に着いたあとの貨物をどうやって地域内に分配するかという点は難しいものです。

ここにはある程度は自動車利用は残すべきでしょう。

それを、行政主体の物流部門とするか、特例として自動車保有を認める民間会社とするかは難しい問題です。非効率と不正の温床となるでしょう。

 

旅客輸送では、多くの社会体制の変更が必要となります。

個人の自家用車利用による通勤通学は不可能とします。そうなれば現状の勤務、通学といったことができなくなります。

それを補うような公共交通を整備しなければなりませんが、すべての住民の近所にまでそれが届くようにすることはできないでしょう。

 

これは、かつての狭い住居から郊外の広い一戸建てへと広がってしまったということが、自動車社会の成立そのものであったということを考えれば、元に戻すということも簡単にはできないことも分かります。

それでも、ここを乗り越えなければ脱エネルギー社会構築はまったく不可能であるというのも間違いないところです。

 

かなり困難な問題が山積ですが、それでもこれをクリアしなければ社会の行く末自体も危険であることを考えれば何とかしなければならないものでしょう。

 

これらを乗り越えて、目指すべき地方都市像はどのようなものか。

 

まず、都市間交通の拠点となる駅と貨物駅、そして内航貨物船の港が都市の中核となります。

そこを中心に路面電車路線を張り巡らせます。これが都市内の旅客輸送の中核となります。

とはいえ、それだけでは不足でしょうから初期の段階ではバスによる輸送も併用します。

これらの運営は自動車税を基として公的組織で実施します。

貨物輸送は貨物駅または港を中心にして域内のみを走行する小貨物自動車で実施します。

現在の企業や学校、病院、役所等の配置と住民の移動のすべてをこれらの交通体系で充足させることはできないでしょう。

しかし、社会の側が変わっていけばそれで十分とすることができるはずです。

世界企業からの製品供給を待つことも難しくなるでしょう。輸送コストがかかりすぎ、日本は商売相手にならなくなります。

そうなれば、地元で製造する中小企業にも復活のチャンスが巡ってきます。

さらに、食料品製造の農業などもこれまでより多くの必要性が生まれるでしょう。

そのような、かなり自立した地方都市というものを全国各地に作り上げていくというのが、脱エネルギー社会への移行の第一歩になるわけです。

 

ここまでの話では東京など首都圏や大都市には触れていません。

エネルギー集積のシンボルのような東京がどうなるか、それは脱エネルギーとは正反対の勢力の中心地でもあります。

地方へのシフトが進めば東京からの人口流出も多数になるはずですが、それでもまだ相当数が残るでしょう。

彼らに対しての物資供給もしなければなりません。その経済力も強いはずですので、どうしてもそちらに引かれるものが多いでしょう。

 

(続く)