爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

加計問題、偉そうな顔で「私の意向の入る余地は全く無い」などと言われてもね。

また安倍首相はお仲間ばかりの後援会で冒頭の言葉をお吐きになったようです。

 

そうではないという証言がボロボロ出ているのにね。

 

やはり口先だけの指示だったので証拠は全く残っていないと安心しての強気なんでしょうが。

 

証拠などなくても結果がすべてを語っています。

そうなると、「他に獣医学部をいくつ作ってもよい」などと言い出したとか。もう思考停止の錯乱状態と思いますが。

 

彼には「李下に冠を正さず」などという心得などはまったく無いようです。

本来であれば、古くからの親友であっても、いやそれだからこそその関わるところには、自分が最高権力者である間は近づかない、近づけないといった節度を守ってようやく世間の納得が得られるものです。

まったく公平な扱いをしても結果的にそうなればどう見られるか。その認識があればするべき行動があるはずです。

「李下に冠」どころか「泥田にスコップをもって入って荒らし回る」ようなことをしておいて、「余地はない」などと誰が信じるでしょう。

 

 

とはいえ、「信じる、いや信じたい」という連中がまだまだいそうです。

 

加計学園森友学園」で検索すると、評論家やブロガーで「手続き上はまったく問題がない」とか「違法性は全くないにも関わらずいつまでもこだわる野党が問題」といったことを書いたり言ったりしている人も多いようです。

 

「違法性がない」ことがこの問題を免罪する理由にはなりません。

せいぜい「現行法には不備がある」ということを証明しているに過ぎません。

そうでなくても、政治や官僚の世界には法的に不備が多いのは明らかです。

その極めて典型的な例が明るみに出されたものであり、「違法性がない」ことが一番の問題であるということです。

 

「確かに違法性はないから刑罰には問えない」かもしれませんが、そういった政治家が最高権力を今後も握り続けるのは問題だというのが自然な態度でしょう。

 

ここはすっぱりと政権を降りて、こういった問題が再発しないように後任者に法整備を委ねるというのが、最後に彼が「美しい姿」を見せることができるチャンスだと思いますが。

 

「望遠ニッポン見聞録」ヤマザキマリ著

ヤマザキマリさんと言えば、テルマエ・ロマエの原作者。

17歳にヨーロッパに渡り、その後長く海外生活をしている方です。

(一番長いのはイタリア、その他アメリカ、シリア、ブラジル等にも住んでいたとか)

 

日本というところには、かなり複雑な心境で対峙してきたようですが、やはり祖国としての感情はお持ちのようです。

 

しかし、遠くはなれたところから眺めればいろいろな面が見えてくるようです。

そういった観点からあれこれの話題を連ねていますが、やはり長く住んでいるイタリアと日本といったところの記述が多いようです。

ただし、それもかなり日本から見るイタリア像、ヨーロッパ像とは異なる見方をされていると感じます。

たとえば、日本の雑誌の表紙を飾るイタリア人タレント。いかにも風なタイプですが、マリさんのイタリア人ご夫君は「イタリアでこんな男見たこと無いよ」とおっしゃるそうです。

 

 

日本人の酒の飲み方という点で特徴的なのは「まずビール」のようです。

マリさんの見る所、ビールは日本のものが世界で一番美味しいのではないかということです。

しかし、ビールへの嗜好ということでは、他のビール愛好国(ドイツ、デンマークアイルランド等)と日本とは大きく異なるようです。

 

ビール愛好国はビールだけ、ワイン愛好国はワインだけを飲むというのがあちらの流儀で、イタリアでは通常はワインしか飲みません。しかもイタリアワイン限定で、ワインならフランスでもスペインでもチリでも構わず飲むという日本人とは大きな差があるようです。

 

 

 

おしん」というテレビドラマは世界各国で放映されており、国によっては非常に大ヒットしているということはよく知られていることでしょう。

しかし、その状況は国によってかなり違い、アジアやイスラム圏の人々は特に強く自らのことのようにそこに引き込まれて見てしまったようですが、西欧諸国ではそれほどの感動は呼ばなかったようです。

 

やはりアジアやイスラム圏の特に女性たちは、「耐える」ということが生活の中で大きな位置を占めており、そこに「おしん」への共感が広がる理由があったようです。

その点、西欧諸国ではそのような心理があまり理解できる状況ではなかったようです。

 

 

海外で暮らす時の心構えとして大切なのは、やはり「郷に入れば郷に従え」で、現地の人と可能な限り同じ暮らしをするということが必要なことですが、さすがのマリさんも絶対に我慢できないのが「美容院」と「歯医者」だそうです。

髪の毛というものに一番気を使っているのは文句なしに日本人だそうで、さらに髪型も客それぞれに似合ったものを工夫してアレンジしてくれる技術は最高だそうです。

 

そんなわけで、美容院はできるだけ海外では行かずに、日本に帰った時に行くようにしていたそうですが、歯医者はそうは行きません。

痛んだ時は仕方なく現地の歯医者にかかったそうですが、日本のような上手で注意深く処置してくれるような歯医者にはイタリアでも中東でもポルトガルでもお目にかかれなかったそうです。

また、アメリカでは眼の飛び出るような見積書を出され、やらずに我慢ということもあったとか。

 

どうも、海外から(しかも日本のことに精通している人が)見た日本というものには、面白いものがあるようです。

 

望遠ニッポン見聞録 (幻冬舎文庫)

望遠ニッポン見聞録 (幻冬舎文庫)

 

 

「デジタルメディア・トレーニング」富田英典、南田勝也、辻泉編

本書は2007年の出版ですので、もう10年前になりますが、その時点はインターネットやケータイなどが爆発的に広まりだしてからおよそ10年が経過した頃でした。

多くの人がそのデジタルメディアの波に飲まれながら、上手く使いこなすというよりは翻弄されているという状況で、どのように付き合っていくかということを整理して見せるという趣旨の本でした。

 

編著者はメディア論、コミュニケーション論などが専門の大学教授などです。若い人向けに例題や実習風に味付けされている体裁となっています。

 

メディアとしては、「ケータイ」(PHSも含む)、「ホームページ」(ブログ、掲示板も含む)、「文化作品」(音楽や小説)、「ビデオゲーム」という枠組みで捉えられています。

まだ、SNSはさほど大きくは広がっていなかったからか、独立して取り上げられては居ません。

 

それぞれのメディアは「敵か味方か」と説明され、敵としての性格、味方としての性格の双方を解析されています。

 

ホームページについての記述は今でもさらに大きな問題となっていることを含みます。

すなわち、そこに書かれていることは決して正しいものばかりではないこと。

(ほとんど嘘ばかりというものもあります)

かつての新聞、テレビなどのメディアは一応それを作り出す編集者があり、またゲートキーパーという記述の間違いを防ぐ機能がありました。

ホームページにはそういったゲートキーパーは無いのですが、それが分からないまま無批判に内容を受け入れてしまう危険性が付きまといます。

 

しかし、ホームページの持つ双方向性というものは、従来のメディアにはほとんど存在しなかった性格であり、これは有効活用すべきものでしょう。

 

 

ネットコミュニケーションについて言えば、当時から大問題であった「出会い系サイト」など、若者に危害が及ぶ可能性のあるものとの付き合い方は今でも同様です。

そこでは「匿名性」というものが作用する状況が、危険にも有益にもなってきます。

 

デジタルメディア・トレーニング―情報化時代の社会学的思考法 (有斐閣選書)

デジタルメディア・トレーニング―情報化時代の社会学的思考法 (有斐閣選書)

 

 この本の出版以降、スマホの普及というまた大きな変化が起きています。ケータイとインターネットがさらに融合したような状況になり、また常にネット接続状態になるという点も大きいと思います。どのような未来が待っているのか。

 

 

 

「兵法 勝ち残るための戦略と戦術」小和田泰経著

兵法と言ってもいろいろな種類のものがあるのでしょうが、ここでは主に中国の古代の戦国時代に成立したものと、その後それから派生したものを扱っています。

 

本書は、兵法書と兵法家、そしてその内容をコンパクトにまとめて記しており、兵法というものを概観するには手頃なものかもしれません。

 

 兵法というとやはり「孫子」でしょうか。

春秋時代の末期に呉に仕えたと言われる孫武の兵法と言われていますが、実際は誰が書いたか明らかではありません。

また、孫武の子孫と言われる戦国時代の孫臏の兵法を指すこともあるようです。

 

戦国時代の魏に仕えた呉起の「呉子」も有名ですが、これも誰が書いたかはわかりません。

 

他にも有名な将軍や軍師といった人々の名で書かれたものも数多くありますが、黄帝太公望管仲といった名前を借りていても実際にまとめられたのは戦国時代以降であり、どれほど当時の事情を取り入れているかは疑問です。

 

 

兵法といっても、戦術の記載だけに留まらず、国の治世から臣下の統率等、さまざまな面の記述が含まれているのが普通で、総合的に国力を上げて他を圧倒するという思想が見えてきます。

よく知られている言葉ですが、孫子の「兵は国の大事にして死生の地、存亡の道なり」とか、呉子の「内に文徳を修め、外に武備を治む」といったものはそれを表しています。

 

 

なお本書後半には実際に繰り広げられた戦いの数々の経過も述べられていますが、これらの戦いがあったことはおそらく間違いのないことでしょうが、どこまで兵法というものを応用していたのでしょうか。

 

「生兵法は怪我の元」という言葉どおり、兵法に通じていたとされた戦国時代の趙の趙括がそれで秦に大敗した長平の戦いというものを見ると、兵法の意識も強かったであろうし、それに頼った人々の失敗も数々あったであろうとは思えます。

 

兵法というものを歴史を通して見ていくということも面白いことですが、それ以上に兵法家にとどまらず様々な思想を生み出した中国の戦国時代というものの面白さの方をより強く感じてしまいました。

 

兵法 (Truth In History)

兵法 (Truth In History)

 

 

「21世紀日本の格差」橘木俊詔著

著者は経済学の中でも労働経済学、公共経済学といった分野がご専門の方です。

 

あとがきに書かれていますが、およそ10年前に日本にも大きな格差ができているとして問題になった時期があったものの、その後世間の関心は薄れたようでした。

しかし、最近になってピケティの「21世紀の資本」やアトキンソンの「21世紀の不平等」が出版され、さらにディートンが2015年ノーベル経済学賞受賞といった格差についての話題が多く取り上げられるようになって、日本でも再び格差問題への関心が高くなってきました。

2015年にピケティが来日した時に、著者は講演のコメンテータを務め、直に対話もしたことで大いに刺激を受けたそうです。

 

そこで、ピケティならびにアトキンソン、ディートンの業績を紹介し、さらにピケティがあまり言及していない貧困層についての分析、成長か分配かの問題、健康格差・老老格差といったことを論じたのが本書であるということです。

 

 

ピケティの議論は、比較的単純な経済理論を現実の統計に当てはめて、富の格差が拡大している状況とその理由をうまく解析しているのが特徴です。

多くの資本主義国を200年以上にわたるスパンで分析しており、その現実妥当性は高いものと言えます。

ただし、著者から見たところ、ピケティがあくまでも高所得者の動向から格差拡大を見ようとしているのが気になるということです。

日本の現状などを見る場合には、やはり貧困層の問題を中心に据えるべきだという立場です。

 

アンガス・ディートンは2015年にノーベル経済学賞を受賞しましたが、その主要な受賞理由は発展途上国における格差・貧困問題でした。

また彼は健康格差の分析というものに着目して先進国と発展途上国の差を解明しました。

著者はディートンの議論に刺激を受け、日本の国内での高所得者低所得者の間の健康格差の分析を行いました。

 

アトキンソンの「21世紀の不平等」は日本語版は2015年に出版されましたが、その他の言語でも十数カ国で翻訳が進行中ということで、今後注目を世界中で集める可能性があります。

労働者の賃金格差や、社会保障制度の充実策といった方向の議論をしており、政策提言も行っています。

著者がその15の政策提言のうち日本に特に必要としているのは「所得税の累進度を高める」「相続税と資産税を確実に徴収する」「最低賃金を引き上げる」「児童手当を充実させる」「年金や医療などの社会保障制度のさらなる充実を」といった点です。

 

 

本書はそのあとの部分で、「日本の格差の現実」「富裕層への高課税は可能か」「格差解消と経済成長はトレードオフか」「高齢者の貧困の実相」という問題を扱っています。

それぞれ、非常に興味深い論議がなされていますが、詳しい紹介は略します。

 

 

日本が格差社会かどうかという点は、否定する論者も居るなどまだ議論が続いていますが、実は貧困というものを定義するには2通りの方法があります。

それは「絶対的貧困」と「相対的貧困」というものであり、前者は人が最低限生きていくために必要な、食料・衣料・光熱費・住居・健康の支出の総額がいくらかという視点に立脚し、最低限の生活のためにどの程度の所得が必要かということを定めて貧困線と定義し、それ以下の所得しか無いものを絶対的貧困とするものです。

 

しかし、日本ではその厳密に定義された絶対的貧困というものは存在していません。

これは計測上の課題が多くある上に、価値判断・政治判断が必要なために手を付けられていないということです。

他の先進諸国では政府によって貧困線の定義と計測が提唱されています。

 

相対的貧困とは、国における所得分布に注目し、中央の順位にいる人の所得の一定割合以下の所得しか無い人を貧困者と定義するものです。

具体的にその割合はOECDでは50%、EUは60%という値を使っています。

 

 

格差の影響がどう出るか、いろいろな議論がされていますが、OECDがその分析結果を公表しており、格差の存在が経済成長率にどのような効果を及ぼすかが報告されています。

それによると、格差の存在が経済成長率を上げたと見られるのは、アイルランド・フランス・スペインの3カ国のみで、他の日本を含む16カ国では格差の存在が経済成長率を引き下げているということです。

つまり、格差を解消しようとすれば経済成長率も上げられる可能性があるということです。

一般には、高額所得者への課税を減らすことが経済成長につながるかのようなことが言われ、その政策が取られることが多いのですが、実は逆であるようです。

これは、格差拡大により所得の低い家庭では子供の教育もできず、その子が成長しても高い能力が期待できない影響が大きいと言えそうです。

 

21世紀日本の格差

21世紀日本の格差

 

 格差という問題を非常に分かりやすく論じている本だと感じます。

ピケティの本も大きな話題になりましたが、日本の状態を説明するにはこちらの方が適しているのでしょう。

 

「観光立国の正体」藻谷浩介、山田桂一郎著

外国人旅行者が2000万人を越え、国も観光立国という方針を打ち出し力を入れているようにも見えますが、その実、内容は非常にお寒いもののようです。

 

この本は、エコノミストとして活躍されている藻谷さんが、スイスのツェルマットに在住しガイドから始めて様々な観光産業に携わり、日本でも観光業のコンサルタント活動もされている山田桂一郎さんとともに作り上げた本です。

 

スイスは文句なしに観光業の先進国と言えるでしょうが、そこでは住民自ら地域の価値を高め、多くの観光客に満足して帰ってもらい、またリピートしてもらうという意識が徹底しています。

しかし、日本では旧態依然とした観光産業が今だにあちこちに残存し、わずかな補助金に群がるという状態のところが各地に残っています。

 

このような日本の観光を厳しく批判するこの本も、作り上げるまでは相当な時間がかかったようです。

それは、「好例」として取り上げようとした観光地が、本を書いている間にその地域の自治体首長が交代してしまったり、観光産業の指導者が入れ替わってまた「地元ボスゾンビ」が復活してしまったりということで、元の木阿弥になる例が頻発したそうです。

国からの補助金頼りの地方という構図がここでも横行し、自立しようとする人々の足を引っ張るという図式がどこでも見られるようです。

それでも、山田さんの提示する観光産業による地域の自立ということは、非常に魅力的な将来かもしれません。

そのためには、地域全体が相当変わらなければ。

 

 

 

スイスという国は今でこそ確固たる地位を占めているようですが、かつては山岳の貧乏国であったようです。

なんとか生き残るのに必死だった国が、主にイギリス人が観光客として訪れることで生き延びることに成功しました。

しかし、観光客というものは気まぐれなものですから、スイスという国を魅力のある場所にし続けるということを国民全体が共通の目標とし、それを維持していくということを最優先にしています。

スイスの観光価値は、値段が安いことではありません。逆に少々高くても質の良いものがあるということを重視しています。

サービスも、商品も、質の高いものを提供するということで、スイス全体に高品質という印象を持たせ、ブランド価値を高めました。

 

しかし、観光立国などと唱えている日本はどうでしょうか。

日本の観光業は落ち込み続けています。90年代をピークに宿泊数、消費額ともにずっと下落しています。もはや国内旅行というものは国民から見放されているとも言えます。

しかし、日本の観光業者はこの低迷は景気のせいだと考え続けています。

 

山田さんに言わせれば、日本の観光業がダメになった理由は、「一見(いちげん)の客を効率よく回すことだけを考え、客の満足度を上げるとか、リピーターを獲得するという努力を怠った」からです。

特に、高度成長期からバブル期にかけて団体客でにぎわった観光地で顕著です。

 

長期滞在する客に地域でのさまざまな体験をしてもらうという方向の旅行ができる場所がまだまだできていません。

長期どころか、3泊も続けて泊まると出す料理が無くなる旅館がいまだに多くあります。

旅行業以外のサービス業では「リピーターあってのサービス業」というのがビジネスの常識です。しかし、旅行業ではそれがまったく通用しません。

画一的な団体旅行が主流だった時代の感覚のまま、今でも営業しているところが多いのですが、すでに団体客のシェアは全体の1割まで減っています。

 

 

「観光でまちおこし」と言ったことが良く言われます。

しかし、これも大きな間違いです。

観光だけでまちおこしなどということは不可能です。実際はまったく逆で、「本当の意味で地域が良くなると、観光客もやってくる」ということです。

地域の生活文化、伝統風習、自然環境、地場産業など、その地域の魅力が増せばそれを見に来る観光客も増えるということです。

観光産業だけが何かしようとしても上辺だけのものになりかねません。

 

観光用の食材、ホテルの備品なども日本では安いものを求めて各地から購入するのが普通ですが、スイスでは地元で調達するのが原則です。そうやって、地域内でお金を回すということが、地域の活力を上げ、その魅力を上げることにつながります。

地元の商店街や企業が軒並み不況で、ホテルだけ活気ある状態では観光客が来ても町に出る気もしません。

ツェルマットでは条例で自動車の乗り入れを禁止し、馬車と電気自動車のみが走ることができます。

その電気自動車も大手自動車会社が開発したものをそのまま導入したわけではなく、1960年代に地域内の会社で作ったものを供給しました。

日本の観光地で一番欠けているのはこのような「地域内でお金を回す」という考え方のようです。

 

 

また、日本の観光地はどこでも同様ですが、世界の富裕層を迎える体制がまったくないのももったいない話です。

世界中で、レジャーだけに年間100万ドル(1億円)以上を使える人が約10万人いるそうです。

1泊数十万円、1食数万円でも納得すればポンと支払い、気に入れば何度でも来てくれるような客が存在するのですが、彼らのための施設は日本には存在しません。

最近ようやくその下のレベルの施設がいくつかできかけていますが、まだまだでしょう。

 

逆に、あふれているのが格安ホテルチェーンです。

こういったチェーンは全国一律の格安価格が売り物ですが、そのためにサービスも切り詰め朝も夜もバイキング料理でどこも代わり映えしません。

地域全体の活性化という意味ではマイナス要素ばかりのようです。

以前からの旅館も価格引き下げ競争に巻き込まれ倒産ということも出てきます。

 

 

 

地域を活性化し観光の魅力を増すということに気付いて行動を始めた人たちも出てきています。

しかし、日本の各地にはこのような動きに逆行し彼らを潰してしまうような「地域ボスのゾンビキャラ」というべき人々が存在します。

地域の権力者で、観光協会などを牛耳ってしまい、うっかり来た客を自分のところに誘導するようなことを平気でしてしまいます。

大型旅館の二代目三代目経営者などでこのような人物が見られるようです。

 

また、そのような種類の人間が自治体の首長に選ばれてしまい、間違った方向に政治を持っていくことも多々あるようです。

日本全体に見られるのですが、住民が政治家を選ぶ基準が間違っています。

経済活性化というものが、国からの補助金獲得だと勘違いしている政治家と、それに騙される住民という図式がどこでも見られます。

 

 

日本の観光は、高度成長時代の団体旅行で大きく形を歪めてしまいました。

バスや鉄道で団体を入れ込み、1泊させてまた次のホテルといった旅行形態で成り立つようなものになってしまい、現代の世界の旅行の形から大きく遅れたままになっています。

問題企業を名前を挙げて例証していますが、JR東海近鉄、そして観光地で言えば熱海、伊香保、伊勢志摩といったところです。

 

近鉄JR東海には客の立場に立ってサービスを考えるというところが決定的に遅れているようです。

近鉄ではクレジットカードが最近まで使えませんでした。また、乗車券はICカードでOKですが、特急券はそれが使えないから現金を出さなければならないなど、外国人には非常に使いにくい状態を放置しています。

JR東海では、紀勢線関西本線に挟まれた区間が第3セクターの伊勢鉄道線なので、外国人旅行者用のJRパスが使用できず、その場で車掌が現金を徴収するということをやっているそうです。日本を嫌いにさせようという企みのようです。

 

 

「おもてなし」という言葉が流行していますが、これも観光業者の都合の押し付けにすぎないところが多いようです。

本当に旅行者の気持ちを調べるマーケティングということを真剣に考えていないので、何を欲しているのかが理解できず、業者が勝手に考えたことを押し付けているだけです。

日本流の固定した接待を誰に対しても同様にしていても、多様な外国人には適していません。臨機応変な姿勢というものが必要でしょう。

 

カジノや統合型リゾートなどという法律もできてしまいましたが、カジノで上手くいっているところなどほとんどありません。

統合リゾートとして良いのはシンガポールのマリーナベイサンズとラスベガス、マカオの一部、その他はすべてうまく行っていません。

カジノ誘致と言っている人を見ると、藻谷さんは「ディズニーランドを見てきた人が、うちの町にも遊園地を作るとダダをこねる」ようなものだと感じるそうです。

 

 

観光立国を目指すのなら、まず「地域の価値の向上」を図ること。そうして地域の魅力を上げてそれを楽しみに来る観光客を増やし、楽しんで帰ってもらってまたリピータとして来てもらう。それが大切なのでしょう。

そのためには、大型旅館や大手旅行会社、鉄道バス会社など、これまでの団体旅行の夢が忘れられない連中の牛耳るような旅行業界から脱却しなければならないということです。

非常に明快な論旨でありわかりやすい本でした。

 

観光立国の正体 (新潮新書)

観光立国の正体 (新潮新書)

 

 

小選挙区の区割り変更 そんなに議員と地域のつながりが大切なら選挙区制度の大幅変更を

衆議院小選挙区の区割り変更が発表され、議員定数の削減の他にも多数の選挙区区割りの変更が公表されており、混乱を招いています。

 

もともとは、議員定数あたりの有権者数が最大と最小とで2倍以上となったために裁判所で違憲状態と判断され(相も変わらずの判決で、三権分立など絵に描いた餅というものですが、今回はそれには触れません)、それを最小の手直しで誤魔化そうという小手先の手法ですが、都道府県全体での定数削減だけでは手に負えなくなって多数の選挙区の変更につながったものと見られます。

 

今朝のテレビニュースでも、選挙区選出議員とその後援会の会員が「築いてきた関係が途絶える」とし、政治不信にもつながるとして批判していました。

 

まあ、国政に携わる衆議院議員が地元との関係だけのような存在でも困るのですが、これも今は置いておきます。

 

問題は、このような事態が頻発するのが「小選挙区制」の宿命であるということです。

 

今回のような小手先の修復ですら多数の選挙区で区割り変更が必要となるのですが、もしもこれが私の考えるような「理想的小選挙区制」であればその事態が全国の選挙区で毎回選挙の度に頻発することになるはずです。

 

私の考える「理想的小選挙区制」とは、決して政治の状態として「理想的」なのではありません。

ただ単に、「選挙制度として合理的であり、理性的決定方法である」というだけの意味です。

それは、全国の有権者数を衆議院議員定数で割り、その数と小選挙区有権者数が限りなく近づくように、最低限は市町村などの人口も加味して行政単位を尊重しながら組み替えるというものです。

そうすれば、選挙の度に議員あたりの有権者数の比率は限りなく1.000に近づくはずであり、公平性は最大に保たれることとなります。

 

しかし、このような制度運営を行えば上記のような「議員と地域のつながり」などはどんどんと薄れていくでしょう。

 

さて、それでは数々の問題点を一気に解決する選挙制度は何かということです。

 

それは「完全大選挙区制(全国1区)」です。

地方ごとの選挙区などは設けずに、すべての議員は完全全国区で選出します。

それでなぜ、地域と議員の関係が保てるかと言えば、それを求める議員や後援会は「地元党」とでも言う政党でも作りそれで選挙戦を戦えば良いだけの話です。

例えば、私の住む熊本県なら「熊本党」とでも言う政党を作り、そこから候補者を立てれば良いのです。まあ、それで何人当選できるかはわかりませんが。

 

地域との関係は求めないのであれば、職域政党でも良し、(例えば「金融党」とか、「土木建設党」とか)、ほとんど流行らないでしょうがイデオロギーでも良し(例えば「共産党」とか「社会党」とか、あれそのままか)、宗教でも良し(「公明党」とか、これもそのまま)

いろいろな種別の政党ができるでしょうが、すべてを同等の条件で選挙で選ぶだけの話です。

 

こうすれば、いわゆる死票というものは最少で抑えられますし、少数政党でも投票数に応じた議員を確保できるという利点があります。

 

社会正義という観点からは非常に優れた選挙制度だと思いますが、どうでしょうか。