爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

戦争はしませんとはどういうことか

今日は長崎原爆投下の日、15日は第二次大戦終戦の日と戦争関係の記念日が連続する季節で、テレビの番組も関連するものが多くなりますが、そこで必ず出てくるのが「決して戦争はしてはいけない」という言葉です。

あまりにも安易に繰り返されるために反感も感じられるほどですが、例えば「日本で市民の被害者が多すぎるから」という理由だけで語られれば、では外国に侵略して行って勝っているところでやめれば良かったのかという問題とも抵触してしまいます。

「国際紛争を解決する手段としての戦争放棄」とは憲法第9条に書かれていることですが、ここを「国際紛争を起こさない」と読み替えてしまうと違った意味になります。
「国際紛争があっても戦争はしない」というのが原義に近いはずですが、そこでは国際紛争に発展した事態でもなんとか戦争にはしないという努力が求められます。
そこには、当然のことながら外交交渉で解決すると言うことを意識しているのでしょうが、そればかりではないと言うことを忘れてはいけません。
外交交渉で不調の場合でも「ひたすら耐える」ということが必要になります。耐えられなければ戦争になります。

ロケット弾を打たれただけで「自衛のため」と称して大規模な攻撃を始めるイスラエルのような例もあります。
これまでの世界史を見ても理不尽な要求に耐えられずに開戦などという例は無限にあります。
どこまでやられたら戦争という手段に訴えたらよいのか、君主を侮辱されただけで開戦ということもありましたし、市民を殺害されたというのが理由になることもしばしばです。
領土を取られたらどうでしょう。そろそろ多くの人が開戦に同意しそうです。
国民全員を奴隷にされたらどうでしょう。ここまでいけば誰も「戦争はいけない」とは言えそうもありません。

そこまで考えての「決して戦争はしてはいけない」でしょうか。