爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「エネルギーを選びなおす」小澤祥司著

著者の小澤さんは東京大学農学部を卒業したあと、出版社勤務などを経て執筆活動の傍ら環境活動をされているということです。
福島原発事故を経てようやくエネルギー問題に人の目が集まるようになりましたが、まだその混乱はひどく、どの方向に行くのが良いかということがなかなか打ち出せないままですが、今後のエネルギーを選びなおすと言うテーマをはっきりとうたうことができる人は少ないようです。
本書の著者もなかなか現状を見る目はありそうですが、今後の見通しについてはまだ甘さが目立つような気がしてなりません。ちょうど今NPO法人「もったいない学会」副会長の田村八洲夫さんの著書も読んでいるのですが、そちらの本の見通しの厳しさと比べると差が明らかです。

人類のエネルギー獲得の歴史はほとんどが森林伐採によっており、本書の記述も江戸時代に日本を訪れた外国人が見た荒廃しきった日本の瀬戸内海周辺の山の状況から始まっています。日本の江戸時代は再生農業であったという表現をする人が多いのですが、世界史の中ではもっともそれに近かった文明であったのは事実でしょうが実際は人里に近い山の森林はほとんど伐採されて禿山に近くなっていたようです。ここに着目されている本書著者の視点は確かでしょう。
本書ではさらにその後の世界が石炭使用から石油使用へと移行してしまい、その後瞬く間に石油を使い果たしていき、すでにピークに達したと言う「オイルピーク論」を紹介しています。これも的確かと思います。
それに対し、シェールガス革命だとか、メタンハイドレートなどと言う話が続出していますが、これも本著者は「エネルギー利得率(EPR)」の視点からいずれも実用性が乏しいことを論じており、間違いのないところと思います。

それ以外のエネルギー源、太陽光発電原子力発電の開発に関しても幻想を持たず、実現性については疑問を持っています。

ここまでは良いのですが、ではどうしたらよいかという点になるとどうしても筆が進まないように見えるのはやむを得ないことでしょうか。エネルギーの使用量は速やかに半分以下に下げなければいけないという点は確かであり、また大規模なエネルギー源というものはもはやできない以上、地域で少しずつ集めていくという方向しかないというのも確かでしょうが、それで出ているヨーロッパの田舎の例がやや疑問に思います。
ドイツ南西部のフライアムトという村では太陽光発電、太陽光集熱装置や風力発電装置に加え、木材ボイラーなどでエネルギー自給を果たしているということですが、そのような言い方で「エネルギー自給」を言うことは他にも多数の例があるようですが、その域内で発電装置等を作成できるのでなければ、決して「自給」などとは言えないと思うのですが。

発電装置の作成に使われるエネルギーはどこから出ているのかを解決しなければいけないというところです。