爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ドレミを選んだ日本人」千葉優子著

明治維新まではほとんど西洋音楽には触れることの無かった日本人が、今では完全に西洋音楽の体系に組み込まれており、昔の伝統音楽は一般の人々は聞くことも少なくなっています。
正月などには宮城道雄の「春の海」が流れることもありますが、実はそれは日本伝統の音楽とはかなり異質なもので、西洋音楽に触れながら変質したものだということもほとんどの人は気づきません。

音楽史の研究者でもある著者が、日本人がいかに西洋音楽に触れ、そして取り入れていったか。(そして完全にそれに取り込まれてしまったか)の過程を非常に詳しく解説したものが本書です。
現代の人が西洋音楽と取り入れた過程について抱く印象は、明治政府の欧化政策により自然に進んだというものでしょうが、そう簡単なものではなかったと言うことです。

明治以前に実は西洋音楽も一度日本に入っていました。戦国時代末期にキリスト教宣教師とともに聖歌などが楽器と共に来日したそうです。しかし、その当時の人々はキリシタンのもたらしたその他の事物と同様、目新しく感じるものの別に優れたものと考えることも無く、接しただけでした。当時の人々は自らの文化に自信を持っており、ヴァリニャーノが記した日本人の話として「あなた方(宣教師)が日本に来た以上は日本の風習に従うべきであり、それを覚えないのはあなた方に知力と能力がかけているためだ」と言ったそうです。
そして、キリスト教禁止に伴い音楽も完全に消えてしまいました。

しかし、明治期にはそのような自国文化を尊重する態度はまったく消え去り、伝統文化は劣っていて棄却すべきものというような風潮となってしまいました。そして学問全般について西洋からの移入が始まり、音楽も同様に西洋音楽移入と言うことになったのですが、これはそう簡単には行くものではなかったようです。
音楽としては完全な二重構造になってしまいました。軍楽隊や官立の東京音楽学校では西洋音楽一辺倒となったのですが、それ以外の全国ではまったくそれを取り入れる動きは無く、長唄浄瑠璃、琴、三味線などが広く楽しまれるままだったそうです。ただし、こういった音楽の多くはそれまでは遊里などで行われていたことが多かったために、道徳的な批判もあり全国的に伝統音楽として推進すると言う動きにも結びつかなかったそうです。
大正時代に入っても民間での伝統音楽人気は衰えず、レコード目録のかなりの部分をそれが占めていたということもあったようです。

しかし明治政府の推進策として取られたのは、小学校唱歌として西洋音楽のスタイルに則ったものに子供から慣れさせていくというものでした。完全な西洋音楽というものではなくても、「ヨナ抜き音階」(ファとシの音を抜いて、半音の音程を使わないが、それ以外は西洋音楽の音程を取り入れる)での歌を歌っていくということで日本伝統音楽から脱してしまったことになります。

さらに大正時代には童謡ブームというものが起こり、ここでも日本的な旋律というものを西洋音楽の理論にそって組み立てるという技法が使われることになります。それが次の動き、すなわち山田耕筰と宮城道雄による日本の洋楽と和楽の再構成というものにつながったそうです。
この二人は方向こそ違ったものの、実は両者とも外国人居留地の出身で、幼時から外国音楽に触れる環境であったとか。そういった人々により昭和からの音楽の進展が見られました。宮城道雄の音楽も日本伝統音楽とは相当な違いがあり、そもそも個性重視ということは伝統音楽にはなかったものなのに、宮城の音楽は非常に個性的であったそうです。

もはや日本伝統音楽に戻ることはできないのでしょうが、それを楽しめるだけのゆとりは持っていたいものです。