八代市立博物館友の会の総会が開かれ、その後に続けて講演会が開かれたのですが、今年の講師は熊本城の復旧工事事業にも関わる城郭石垣の専門家、下高大輔さん(熊本博物館学芸員)でした。
下高さんは近世城郭の研究者で石垣が専門と言うことで、元は滋賀県の彦根城を研究していたのですが、熊本地震後の熊本城復旧事業に派遣され、その後こちらに転身されたということで以前にニュースにも出ていました。
石垣の専門家と言っても、何もなければなかなか内部構造などは見るわけにもいかず、その点熊本城では熊本地震で多くの石垣が崩れてしまったために、その復旧工事を始めるためにも詳しい調査研究が必要と言うことで、内部構造も普通では見られないところまで詳しく解析できたということです。
熊本城は加藤清正が入城する以前にも古い時代に城として使われていましたが、清正が最初に城を築いたのが現在の熊本県立第一高校などが位置する古城地区で、その後現在の天守閣周辺の新城に移転したそうです。
そのため、石垣の建築も時代が少しずつずれており、1590年頃から1632年頃まで、5期に分類されるとか。
さらにその後も地震や水害などで壊れることが相次ぎ、その都度修理しているのでその痕跡も各所に残っています。
ただし、どこがいつの時代の建造でどの時代に修理されているのか、詳しいことは中々はっきりとはしないことのようです。
実際の石垣を調査することも大切ですが、この時代には数多くの文献も残されていますので、それを相互に比較検討することも重要になってくるそうです。
多くの資料も頂きました。
これが一般向けのパンフレットの表紙です。
「奇跡の一本石垣」で有名になった飯田丸の状況が次に掲載されています。
現在では石垣修復のために上部の建物もいったん解体し下部の石垣の調査に入っていますが、被災直後の写真というものを見ても明らかに崩れた石垣の色と下部の崩れなかった石垣の色には差があります。
その修理の年代は明治22年の熊本地震で部分的に崩壊したものを修理したものです。
その当時は陸軍の駐屯地だったため陸軍が修理工事にあたったのですが、そのやり方がまずかったということが明らかになっています。
石垣は表面に見える築石の奥にぐり石と言われる小石の層がありさらに奥には土盛層があるのですが、ぐり石も当初は小さい石を組み合わせて堅固にしていたのですが、明治の修理の際にはぐり石を土と混ぜたものを単に流し込んだだけで全く石垣を強固にするには役立たないものでした。
そのために今回の熊本地震ではそこから崩れてしまいました。
現在の天守閣周辺の石垣の建造年代でこれまでに判明している状況をまとめたのが次の図です。
本丸周辺は古くから取り掛かったようですが、北東側の急勾配の方向は後の時代になってからのようです。
広く熊本城全体を見た図が次のものです。
現在では城内と意識されない、古城地区、野球場になっている所、二の丸広場などにも石垣の遺構が広がっていることが分かります。
熊本地震の後には一度だけ、5年ほど前に訪れたことがありますが、その時にはまだ大天守も復旧前で中に入ることはできず、二の丸広場の方向から眺めるだけでした。
完全修復にはまだ数十年かかるということですが、その内に機会があれば見に行ってみたいものです。