バウムクーヘンといえば年輪のような模様のドイツ菓子といったイメージはたいていの人が持っているでしょう。
そのバウムクーヘンがドイツでどのように生まれ日本にやってきたのか。
その歴史をたどると意外に思えることがありました。
まず、ヨーロッパの通常のケーキは「オーブンで焼く」という調理法が普通です。
しかし、バウムクーヘンは最近でこそ専用のオーブンもできているようですが、そもそもは「直火で焼く」というものでした。
そこには他のお菓子とは違った歴史があったようです。
この歴史を五期に分けて論じています。
第一期は古代ギリシャに始まる、オベリアス。この頃にはすでに「発酵パン」というものがあり、それとは違ったものとして串で焼くパンと位置付けられていました。
第二期はヨーロッパ中世の紐状の生地を串に巻き付けて焼くもの。
第三期は15世紀以降にパン生地を使って串に焼き、宴会料理の一つとして色を付けたりして見た目重視。
第四期には卵を入れた生地が出現した17世紀以降。
第五期でようやく現在のものと近づいた18世紀以降となります。
かなり古い時期からすでにパン焼き窯というものは存在しており、パン職人という人々は料理人とは別に仕事をしていました。
そしてパン焼き窯を使って焼くお菓子もありました。
しかし、直火を使って焼くものは料理人の守備範囲に入っていました。
その焼き方はちょうど肉を串にさして回転させながら焼くのと同様でした。
常に串を回転させなければ一方だけが焦げてしまうので、配下に串回しだけをさせ、生地をすこしずつ足していくという方法で焼き上げるお菓子というものは料理ともパンとも菓子とも言い切れない存在でした。
卵生地を少しずつ掛けていくという方法ができたのは完成間近になってからだったのですが、今のような「年輪模様」になるのはようやくその方法を取り出した後のことでした。
それまではこのような年輪模様になるはずもなく、したがってその名も「バウムクーヘン」ではなかったようです。
明治以降にヨーロッパから様々な料理と共にお菓子も入ってくるのですが、最初はフランス風のケーキでした。
それを日本風に変換したものが作られて行きました。
バウムクーヘンは一つの出来事で伝来しました。
第一次世界大戦の際に日本はイギリスなどの連合国側につくのですが、その時にドイツの租借地であった中国の青島を攻略し占領します。
ドイツ軍人は4300人、そしてドイツ人の民間人もいたのですが、彼らを捕虜として捕らえて日本国内に抑留しました。
その中に菓子職人のカール・ユーハイムが居ました。
彼はその後銀座の喫茶店兼菓子店のカフェ・ユーロっプで働き、その後自分で菓子店を開きます。
なおその時にパン職人のフロインドリーブやソーセージ職人のアウグスト・ローマイヤーも同様に捕虜から日本での開業をそれぞれ成し遂げることとなります。
同様の事態は日露戦争後にも起こり、フヨードル・モロゾフはチョコレート店を始めます。
ユーハイムは銀座の店に3年勤めた後横浜に自分の店を開業しました。
しかし関東大震災で被災したため神戸に移りそこで店を開きます。
最初はバウムクーヘンは筒状で売り、客の求めにより切り売りしていたのですが、輪切りにして販売するということを始め普及していきます。
戦争で営業が止まるものの、戦後には再開しまた東京に進出して広まっていきます。
バウムクーヘンはドイツでも婚礼用の菓子として祝宴に提供されていた伝統があったのですが、日本でも結婚式の引き出物として利用を広げます。
ちょうど「年輪を重ねるように見える」ということも喜ばれ、流行していきます。
しかし世紀が変わる頃になってバウムクーヘンは日本でさらに変化し進化していきます。
この時期にバウムクーヘン専用の製造装置が調理機器製造会社から相次いで発売されます。
またレシピも変化していき、それ以前の少しパサついた菓子というものから軽く柔らかいといった口当たりのものとなり、それが大きく流行することになりました。
著者の三浦さんは1953年生まれということですから、私より年長(少しだけ)で、洋菓子の作り方を勉強しお菓子作り教室を主宰してこられたそうです。
しかし2011年、57歳の時に九州大学大学院に入学しお菓子の歴史の研究を始め、この本の内容は博士号取得の際の博士論文を基にしているそうです。
それだけでも感心しますが、その内容も非常に優れたものと思います。