「民主主義は多数決だ」といった風潮が強まり、特に政権中枢や与党などにそういった意見が多く見られるということになってきました。
特に安倍政権になって以来それが目に余るようです。
こういった状況に危機感を覚えたのが、憲法学者の斎藤文男さんで、なんとか分かりやすく解説しようと書いたのがこの本です。
ただし、とはいえやはり専門の法学者ですので、いい加減なことを書くわけにもいかないということであれこれ古今の学者の学説を解説したり引用したりとしたためか、ちょっと素人には分かりづらくなってしまったのは仕方ないことかもしれません。
まあ、あちこちに居る質の悪いアジテーターのように大きな声で一つの事をがなり立てるというわけにはいかないでしょう。
これは斎藤さんも十分に承知していたことのようで、「むすび」のところに言い訳?が書かれています。
「いやまあ、とんだ長談義を聞かされたものだ。それでお前さん、結論はどうなんだ、多数決は民主主義のルールなのか」
と読者の感想まで予測して次に一言で結論づけています。
「民主主義が多数の支配を意味するなら、イエスです。しかし民主主義は人民の自己統治であって、多数の支配ではありません。
民主主義が人民の自己統治を意味するなら、答えはノーです。多数決は民主主義に固有のルールではありません。政治体制のいかんを問わず、集団の意思決定に多数決はつきものです。」
とはいえ、これも「一言の結論」とも言えないようです。
さらに「答えははっきりしています。でもそれでもなぜか釈然としません。この回答で私たちはなにか得られたのでしょうか。」
ここで真相を明らかにします。
「問いの立て方を誤っていたようです。問題の核心は、なにごとも多数決で決めて良いのか。多数決に限界はありはしないか。ということだったのです」
これでだいぶすっきりと頭に入るようになります。
「多数決に限界はあるのか。あります。普遍的人権を侵害してはならないというげんかいです」
いやはや、これを説明するために古今東西の学者たちの主張を紹介し、現状の政治状況のめちゃくちゃなところと紹介してきたのでした。
そして最後にこう結ばれています。
「多数決が悪いのではない。悪いのはその使い方だ」ということです。
「多くの学説」のところも少し書き留めておきます。
プラトンは政治形態の分類で、君主制、貴族制、民主制と分けました。
そしてこれらが堕落すると君主制は僭主制に、貴族制は寡頭制に、民主制は無法状態になると考えました。
プラトンにとっては民主制は多数の専制に他ならなかったのです。
日本の議会制民主主義の変質は「合意形成型民主主義」から「多数決型民主主義」への推移だと分析されます。
55年体制で自民党と社会党はほぼ「一か二分の一政党制」となりました。
再軍備や憲法改正で政治イデオロギーでは激しく争いましたが、裏では政権与党と社会党は取引しそれなりの合意を成り立たせました。
しかし自民党支配が揺らぐことで細川内閣、民主党内閣が生まれたもののそれが失敗し、安倍政権が復帰した頃から「多数決型民主主義」へ大きく変質してきたそうです。
19世紀フランスの政治思想家トクヴィルは、アメリカの政治状況を詳しく視察しその分析を行いました。
アメリカの民主主義が維持発展することを予測しその要因をあげています。
権力分立の仕組みを巧妙に作ったことが民主主義の逸脱を抑制すると考えました。
連邦政府と各州の関係、上院・下院も重要なのですが、中でももっとも重要なのが司法の役割だということです。
立法行政の政府は選挙によりいくらでも多数となる可能性はあり、それが多数の専制を行なう危険性があるのですが、それを抑えるのが司法の役割だということです。
それを確実にするために裁判官の完全な独立を守るとして、最高裁判事の終身制を採用しました。
憲法学者バーネット教授も同様に論じています。
議会が熟議を怠り、少数意見を十分に考慮していないような法制度を作ろうとした場合に政府や世論から独立した裁判所が厳しく審査することで民主政が改善されるということです。
現在の日本の司法のあまりにも理想からかけ離れた状況も、日本の民主制の危機の要因なのでしょう。
非常に中味の濃い、だからこそちょっと難しい本でした。