爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

成人の日に「二十歳のつどい」、存在意義のまったく無い催事になった。

成人の日の前後に開かれる、以前は「成人式」であったものが、さすがに名前はそのままではダメということで「二十歳のつどい」などと改称してそのまま開かれるようです。

 

言うまでもなく民法改正で成人は18歳からと変更されたのですが、式の方は「20歳でやるもの」という固定観念が強固で、いくつかの自治体では18歳で開催という方向を打ち出したのですが、住民・関係者一同の猛反対を浴びました。

 

従来の「成人式」でもせいぜい市長や来賓が「成人の意識」について話をする程度で大して効果も期待できないものでしたが、「成人」と「20歳」が分離したことで、もう何の意義も無いただの催事になってしまいました。

 

18歳という、多くの人にとっては大きな人生の曲がり角を進み、そこから2年経ってきれいな着物やスーツを着て同級生と顔を合わせるという、それが決まりきった行事のように意識に深く刷り込まれ、さらに呉服店、貸衣装、美容院、宴会場といった関係業者も確立してしまえば、もう簡単には変えることもできなくなってしまいます。

 

それならば「成人式」は不要なのか。

18歳になった時に、成人としての権利や義務を改めて確認させることが不要なのか。

とてもそうは思えないのですが、「二十歳のつどい」の他にそれをやろうという動きも弱いようです。

 

まあ、今の20歳以上の大人でもとても「成人」という名にふさわしいとは思えない連中がほとんどですが、それでも無くしてよいものではないでしょう。