爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

リスク学者永井孝志さんのブログより「環境科学への違和感の正体」

リスク学者永井孝志さんのブログで、「環境科学」というものについて書かれていました。

nagaitakashi.net

環境科学といっても対象は広いのかもしれませんが、環境汚染、気候変動といったものを扱うものが最近では主流でしょうか。

 

しかし、結構レベルの高いと思われる科学誌にも変な論文が載っているという感覚は私も持っていました。

 

その正体について、永井さんの分析です。

 

どうやら次の3つの点が問題のようです。

(1)科学と社会運動(〇〇すべき)の混在、(2)「リスクを減らしたい」ではなく「悪いものに罰を与えたい」という感情、(3)「正しさ」の押し付け、という3つの視点

 

これにはインパクトファクターというものを求める科学誌側の問題もありそうです。

「何々は危険」と言えばインパクトがありますが、「何々は分析したけれど低レベルだった」ではインパクトが無いと判断されます。

しかし、実際には実社会に大切なのは後者の方なのですが、それは雑誌側には伝わりません。

 

そこを永井さんは「社会運動と科学が混在している」と表わしていますが、私に言わせれば科学のフリをして社会運動をしている連中が多いということの表れでしょう。

まあ、永井さんも科学者の一人ですからあまり強烈なことは言いたくないのかも。

 

そしてここにも「科学的に決めました」という殺し文句が効果を上げているということです。

この言葉はコロナ禍でも嫌というほど聞きました。

そしてたいていの人はその言葉に弱いためか十分に効果を上げていたようです。

 

「科学的にリスクを減らすことを求めるのではなく、悪いものに罰を与えたい」というのもよく見られる傾向でしょう。

悪いものは無くせばよいと暴走し、結局はそれをなくしても別のリスクが増えるといったことは頻繁に起きています。

中には「悪いもの」ではなく「嫌いなもの」にいつのまにか変換している例もあるようです。

 

最後のまとめでは、科学的観点からファクトを積み上げる部分と社会運動の部分ははっきり分けるべきであると、まあ当然すぎるような結論でした。

ただし、実行するのは非常に困難なものでしょう。