キリスト教の修道院といえば古代から町を離れた荒野の中で信仰の生活を送るというものでしたが、中世の12世紀になってそれとは別の修道会が生まれました。
それが主に十字軍などで異教徒との戦いで活躍する騎士修道会と、それまでの修道院のように農業などで食べ物を作ると言った活動すら許さずに信仰のみの生活を厳守する托鉢修道会というものでした。
それらは全く違う方向に向かうものでしたが、それらを生み出した中世の社会の事情があったようです。
騎士修道会といえばテンプル騎士修道会が有名かと思いますが、他にもホスピタル、ドイツの騎士修道会、さらにイベリア半島で活動したいくつかのものがあります。
テンプル、ホスピタルは主に十字軍としてエルサレムなどの中東での活動を、ドイツは北方の異教徒との戦い、そしてイベリア半島ではイスラム教徒からのレコンキスタの一翼を担いました。
キリスト教でも殺人はタブーとされていましたが、異教徒を神の名において殺害することは許されるとされ、折から東ローマからの要請で聖地エルサレムを取り戻すために始まった十字軍には多くの西ヨーロッパの騎士たちが参加しました。
その中で特に世俗の生活を捨て異教徒との戦いだけを行なうことを誓ったのが騎士修道会でした。
しかし、それらの騎士修道会に対し多くの寄進がされ、その所領は大きなものとなりその経営で多くの収入を得ることとなります。
一方、多くの財産を使って金融をも行なうこととなり、国際金融も専門に行い利益を上げるようにもなります。
またドイツ騎士団は北方の異教徒と戦ううちに多くの所領を得て最後にはプロイセンを所有する国家になってしまいます。
あまりにも大きくなりすぎたテンプル騎士修道会はフランスから憎まれ結局は主要メンバーが殺されて解散することになります。
イベリア半島の騎士修道会はその地のレコンキスタと呼ばれるイスラム教徒排斥に邁進しますが、アラゴンやポルトガルなどの国家の武力を担う組織となってしまい、修道会としての性格は失っていきます。
15世紀のポルトガル国王ジョアン1世は王子の一人ジョアンをサンチャゴ騎士修道会の総監督とし、もうひとりの王子エンリケ航海王子を主キリスト修道会の総長に送り込み国家の武力組織としてしまいました。
またその後アフリカ南部の喜望峰を越えたヴァスコ・ダ・ガマも修道士の一員であり、サンチャゴ騎士修道会と主キリスト騎士修道会に所属していたそうです。
もう一つのこの時代の特徴的な修道会が托鉢修道会と呼ばれるものです。
これより前の時代の修道院は自分たちで農園を作ったりしていたのに対し、聖フランチェスコはそのような生産活動を否定しました。
何も生産せずただ神への信仰のみで生きていくべきだとしたので、前代の修道院のように人里離れたところに住むわけにはいきません。
托鉢をして食べ物を得るためにはそれを支える信者のいるところに住まざるを得ず、町の修道院でなければいけませんでした。
聖フランチェスコは現代でも人気が高く、様々な小説や映画でも描かれています。
アッシジのフランチェスコとして知られますが、アッシジの富裕な商人の子として生まれた彼は洗礼名をジョバンニ・バティスタ・ポルドーネと言います。
彼がフランチェスコと呼ばれるようになった経緯ははっきりしていませんが、父親も本人もフランスに取引に行く機会が多かったためイタリア語で「フランス人」を意味するフランチェスコと呼ばれるようになったようです。
最初は騎士を目指していたのですが、他国との戦いで捕虜となり1年余り幽閉されたことで身体を壊しそれが不可能となりました。
その後、体調を壊した時に神の啓示を受けたそうです。
信仰のみで生きるという、当時としても少々過激な思想であったため多くの軋轢を生みますがローマ教皇の承認も得て広まりました。
ドミニコ修道会はフランチェスコ修道会と同様に托鉢修道会に分類されますが、その性格はかなり異なるようです。
創建者である聖ドミニクスは異端審問を始めたとも言われていますが、これは誤りのようで、異端審問が始まったのはドミニクスがなくなったかなり後だったようです。
しかし広く民衆に説教し布教するという活動は当時の異端宗派が多かった時代には効果的でありそれが異端審問と結び付けられてしまったのもやむをえないことかもしれません。
なお、ドミニコ会もフランチェスコ会と同様、創始者の死後はその厳格な教義は緩み勢力の拡大に力を入れていったようです。
名前だけは聞いていた修道会ですが、色々なものがあったということは分かりました。