人類は移動や運送の手段として古代から船を利用してきました。
乗組員は必ず食事をしなければならないのですが、彼らはいったいどのようなものを食べていたのでしょうか。
この本では船に関して他の事にはほとんど触れず、ただただ「船での食事」に興味の対象を絞って記されていきます。
ただし、著者のスポルディング氏は「海事史家」という肩書ですが、船員として乗船の経験もあり船については全般的に詳しく知識を持っているようで、処々にそれが見られます。
古いところではヨーロッパの中石器時代、紀元前6000年頃の丸木舟から描写は始まります。
そこでは当然ながら船上での調理はできませんのでそのまま食べられる携行食料を食べていたのでしょうが、その証拠はさすがに残っていないようです。
当時の食事では、陸が見える範囲を航行して食べる時には上陸して調理するという方法も取られました。
これはかなり新しい時代になっても続けられていたようで、古代ギリシャ文明の頃の航海でもその形跡が見られます。
ホメロスのオデッセイでは「上陸して調理した」という記述が何度も見られるのもその習慣を表わしているようです。
しかし航行距離が長くなり頻繁に上陸できないようになると船上での調理の必要性も高くなります。
古代ローマ時代の船の沈没船を見ると船の中に調理設備としてタイル張りの一画があることが分かります。
そのような場所で火を使い調理していたと見られます。
4世紀のビザンチン帝国の沈没船には狭いながらもタイル張りで火を使える厨房の後が見られ、そこでは鍋を並べて掛けられるような鉄棒が設置されていました。
中世初期に北ヨーロッパから各地へ長距離の航海をしたバイキングの船にも加熱設備をもつ厨房が備えられていました。
その料理はどのようなものだったかの証拠は残っていませんが、魚の干物、小麦粉、バターが残されており鍋もあったことから何らかのシチューであったかもしれません。
中世以降、多くの船が交易や侵略、海賊などの目的で長期間の航海をするようになると、船上での乗組員、そして時には乗客の食事をどうするかというのは大きな問題となってきます。
まだ食品の保存ということも難しい時代でしたので、生の食材を積み込んでもすぐに腐ってしまいました。
そればかりか、水も航海が長くなると腐敗してしまいます。
固く焼いた乾パンくらいしか食べられるものが無くなり飢えに苦しむことがしばしばでした。
比較的保存性が良かったのが酒だったのでそれは欠くことのできないものでした。
ワインやビールを樽に入れて飲料用としました。
1743年、イギリス海軍のヴァ―ノン提督は彼の船員に対し「ラム酒は水で割って飲む」ように命令しました。
提督はグログラン(絹生地の一種)のコートを愛用していたので、「オールド・グロッグ」と呼ばれていたのですが、彼の命じた飲み物も「グロッグ」と呼ばれるようになりました。
それを飲み過ぎた状態を「グロッギー」と呼ぶようになったということです。
なおその後禁酒法時代のアメリカ海軍でグロッグ飲用は禁止され今に至っています。
19世紀に入ると、船の動力として蒸気機関が使われるようになり、蒸気船が出現します。
そのスピードは安定して高速化し航海期間も短縮されました。
また戦争用の食料として缶詰が発明されたことにより、船での食事もそれを利用したものとなり、バラエティが増えました。
さらに20世紀になると冷蔵技術が出現、生の食材を腐らせることなく保存できるようになり、船の上での食事も格段に進歩することになります。
富裕層を対象として船の上でも豪華な料理を出すことが普通となり、それが船会社を選ぶ大きな理由となっていきます。
またそちらをメインにしたようなクルーズツアーも広まり、多くの人を惹きつけるようになります。
そこでは一流ホテルの料理にひけを取らないようなものが提供されることになります。
飛行機旅行の普及でいったんは流行から取り残され、年寄りや引退者ばかりの集まるようなクルーズ船ツアーとなったのですが、近年は再び人気を集めるようになっています。
航海中の乗客乗員の食事を賄うだけの食材を船内に載せるだけでも大変なもののようで、さらにそれを調理し給仕するということはクルーズ船の中で大きな位置を占めています。
確かに、長い航海の間何を食べていたのかというのは大きな問題だったのでしょう。
マゼランやキャプテンクックが船内でどうしていたのか、考えてみれば不思議なほどのことです。
実はもう20年以上も前のことですが、「クルーズ船での研修旅行」というものに会社から派遣されて参加したことがありました。
乗ったのは日本でも有名な船でその料理も定評あるものでした。
ただし、途中数日間は船酔いがひどく何も口にできないということもありましたが。