爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「四大公害病」政野淳子著

四大公害病というのが、水俣病新潟水俣病イタイイタイ病四日市公害であるということは知ってはいましたが、さすがに水俣病については少々は見聞きしていたものの、他の3つについてはほとんど知りませんでした。

 

公害と言われるものが全国に広がっていったその初期の最大のものについて、一通りの知識は得られるように書かれています。

 

1940年代から1960年代にかけて多くの患者が発症しましたが、最初はその原因も分らずに風土病とか奇病と呼ばれていました。

しかし数少ない医師などの働きでそれが工場などの排出物のせいだということが分かりますが、その後も原因の確定や補償、救済の動きも遅く、結局はいずれも裁判を起こし長い係争の末にようやく勝訴と言う経過をたどります。

 

そこに見られるのは、会社側の冷淡な態度に加え経済効果ばかりに目を向けた国や自治体の姿勢、会社による圧力で社会全体として被害者を圧迫するという構造が共通しています。

さらに会社や国側の証人として荒唐無稽な別の原因説を出してきて強く主張する学者たちの存在もそっくりです。

水俣病における有毒アミン説、新潟水俣病における新潟地震による水銀農薬流出説など、数々の恥ずかしい記録が残っています。

 

それらは公害発生の初期的な現象だったのでしょうか。

さすがに徐々に社会情勢は変化してきたのでしょうが、どうやら福島原発事故の様子を見ているとその深部にあるものは大して変化しているようでもなく、日本の中にまだかなり色濃く残っているようです。

 

新潟水俣病の裁判の新潟地裁判決は1971年4月に原告勝訴となり、被告の昭和電工はそれを受け入れ判決は確定しました。

しかし、その後補償を求める被害者が急増したことで、患者の認定基準を急激に強化し、ほとんどの申請者を却下するということになります。

水俣病でも見られるように、劇症の患者を頂点にしてごくわずかな症状の患者までピラミッド状に分布する被害者のどこまでを補償対象として認定するか。

当時、環境庁の専門家会議の座長となっていた新潟大学の椿忠雄は認定基準の変化に疑問を持った医師の質問に対し「しかしそうなったら昭和電工と国はやって行けるだろうか」と本音を漏らしたそうです。

これは水俣病でも全く同じ状況だったと言えるでしょう。

 

日本の公害の原点だったとも言える四大公害病ですが、いずれもきちんと片付いたとは到底言えなかったものだということが分かりました。