出版社「小学館」で長年編集者として活躍し、「少年サンデー」「女性セブン」などの初代編集長でもあった豊田きいち氏がその晩年に「編集者たちに向けて」言いたいことを本にしたものです。
もちろん、編集者以外の人達にも参考になることが書かれています。
自分では書くことができなかった豊田氏は10回のインタビューを予定しこなしたのですが、終了の直後に亡くなったため、文字通り遺書のような本となってしまいました。
本の出版という世界で生きてきた豊田さんは、その様々な出来事、裏側などにも通じていたようで、そういった話もあちこちに出てきますが、その中ではやはり現在編集者として仕事をしている若い人たちに向けて語りたいことを語っているようです。
曰く「言葉を粗末にするな」「連想をサボるな」「他者と差別化された人になる」「メッセンジャーではいけない」等々
特に強調されているのが、「連想能力」についてです。
「連想能力は日本民族の特性」とまで言っていますが、それでもその能力に欠けている人間が多いようです。
著者の長年勤めた小学館も、最初は「教育」で差別化を図りました。
「小学一年生」からスタートするという戦略を立ててから始めました。
しかし、児童向けの本は黒字でも学年別の先生用の本は赤字でした。
小学校から大学まで、先生と言う人たちは学校で必要な本を決して自費では買わないからだそうです。
何でもおごってもらう意識が強いそうで、本も学校の予算内で全校で1冊だけ買ったものを皆で回し読みするということです。
それでも赤字覚悟で先生用の「学習指導教育技術」の本を出すことで教育ブランドを確立していきました。
出版社も数多くありますが、著者が特に名指しで解説したのが岩波書店です。
戦前の岩波書店は非常に良い本を連続して出版しました。
それをよく見てみると、戦前の岩波を支えた安倍能成、寺田寅彦といった科学者評論家たちはみな夏目漱石つながりだったそうです。
漱石の家に集まる門下生たちをすっぽりと執筆者として迎えたのが岩波だったそうです。
これは初代社長が行ったことなのですが、現在の岩波の社員でもはっきりとは認識していないことに豊田さんは驚いたとか。
岩波が次の世代でも展開し、漱石のつぎには志賀直哉、斎藤茂吉を捕まえました。
そこが「いい企画であると同時に売れる本をつくる」ことだったようです。
岩波が作ったもので非常に優れたものが「日本古典文学大系」だったのですが、当時は古典作品がすべて収まっているというものは日本にはこれ以外にありませんでした。
昭和37年、豊田さんはこれに対抗できるものを小学館からも出版したいと考え、「日本古典文学全集」を作ったそうです。
岩波の「大系」に対しなんとか差別化を図りたいとして、すべての作品に古典作品の「全訳」を付けることとしました。
岩波の「大系」には「意訳」しか載せられていなかったからです。
しかし、執筆者たちはみないい顔はしなかったのですが、それを多くの学者に頭を下げて何とか実行したということです。
本は常に読んでいますが、その裏側に何があるのか、かなり色々とありそうです。