歴史的な海上交通と言えば、江戸時代の北前船の印象が強すぎるためか、日本海がほとんどのように思えます。
しかし、海岸線沿いの交通は海運の方が圧倒的に有利だったはずで、太平洋も無かったはずはありません。
著者の近江さんは日本古代史の特に交通史が専門と言うことですが、ご出身が宮城県石巻市、ちょうど高校生の頃に五松山洞窟遺跡というものが発見され、発掘調査の手伝いにも参加しました。
それがその後考古学を志すきっかけともなったようですが、この洞窟遺跡というものはその他の地域の墓制とはかなり異なり、一度他の場所に葬った後に掘り返して人骨や副葬品を洞窟に改めて収めるというもので、琉球から奄美、紀伊半島、三浦半島といった海沿いの地域に見られるものです。
特に石巻は暖流が流れてきて最後に寒流とぶつかる列島最北の位置であり、もしかしたら海を伝ってきた海の民の最後の地だったのかもしれません。
海上交通というものは、朝鮮半島から海を通って日本列島に渡ってきた人々の子孫としては重要なものであり、多くの海部の民が居たはずですが、文献史料にはほとんど残っていません。
その中でも古代の海運はほとんどが瀬戸内海のみが知られています。
史実が反映されているかは怪しいものの、神武天皇の東征は日向から水軍を率いて瀬戸内海を通り熊野から北上して大和に入っています。
その後の大和朝廷時代にも瀬戸内には漁労や通運に携わる海部(あまべ)と呼ばれる人々が居ました。
しかし、大化の改新以降の律令時代になると公式にはすべて陸上交通のみとなり、海部の民にも班田収授して農民化が図られます。
そこには白村江の大敗が影響していたのかもしれません。
ところが、租税の納入もそれぞれ担いで歩いてこいということですので、輸送量もたかが知れたものでしかもその途中での死亡者も多いということで、徐々に大量輸送が可能な海上交通も認めるということになっていきます。
その記録が正式なものとしてあるのは瀬戸内や北陸、紀伊半島などが多いのですが東北地方から関東の沿海にも残っているようです。
関東から東北への太平洋岸の海路は、米などの輸送もさることながら、蝦夷に対する軍事行動のためにも重要なものでした。
陸路の整備状況も遅れていたためか、軍事作戦のための多量の人員物資の輸送のためにも船の利用は必要なものであり、海路を石巻まで来てその後北上川を利用するというのは有効な方策であったようです。
古代の海運には各地に寄港地が必要であり、それをつなぐ形での航路が出来上がってきました。
まだ海岸線の開発は進まない当時にはラグーン(潟湖)という地形が港として適しており、各地の同様の地形の所に寄港地が形成されました。
東北地方の太平洋岸でも宮城から福島にかけてはそのような地形が数多くあり、昔の船着き場の遺跡があるなど、盛んに利用されていたことが判ります。
房総半島でも九十九里浜にもかつてはラグーンがありそこも港として使われていました。
しかし、その間の常陸の国の大半はそのような地形が無く、この間の海上交通は困難だったようです。
そのためか、陸路がその間をつなぐような形で整備されているということです。
そういった例は九州の有明海沿いにも見られるそうです。
海運や海部の人々の記録というものはあまり残っていないのですが、古代から確実につながっていただろうということが判る遺物があり、まだこれから発掘研究がされれば判ってくることもあるかもしれません。