爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「人騒がせな名画たち」木村泰司著

西洋絵画の名画は、現在売買しようとすると非常に高い価格がつくこともしばしばです。

そして、そうした絵画の日本での評価というものは、なぜか画家と作品を神聖化する傾向が強いために高いものとなりがちです。

しかし、その名画が書かれた当時の事情を知れば、少し印象が変わるかもしれません。

 

18世紀フランスの画家、ジャック=ルイ・ダビッドが書いた「サンベルナール峠を越えるボナパルト」という絵は、誰もが見たことはあるでしょう。

白馬にまたがったナポレオンが雪の峠道を進んでいるといった構図ですが、そこには数々の事実が隠されています。

まず、絵の題名に「ボナパルト」とあることから、これは皇帝即位後ではなく統領時代を描いていることになります。

皇帝即位後には彼は「ナポレオン」としか呼ばれず、ボナパルトと言う姓は使われませんでした。

また舞台のサンベルナール峠はアルプスにありますが、ここは馬にまたがり越えるなどは全く無理で、せいぜいロバしか歩けないようなところだそうです。

それでもこういう構図の絵を描いたというのは、ナポレオンの指示でダヴィッドに政治的プロパガンダとしての絵画を描かせたということで、いわば現在の選挙ポスターのようなものだったということです。

 

ルノワール1880年に描いた、10歳ほどの少女が横向きに座っている姿の絵も誰もが一度は見たことがあるものでしょう。

この少女はイレーヌといい、銀行家のカーン・ダンヴェール家の令嬢でした。

イレーヌは19歳で名家カモンド家に嫁ぎますが、二子を産んだ後に不倫を働き別居してしまいます。

夫は世間体もありなかなか離婚に同意しなかったのですが、しばらくしてようやく離婚し不倫相手と結婚することになります。

ところが、長男は第1次世界大戦で戦死、長女一家はユダヤ強制収容所で殺されることとなりました。

イレーヌは二度目の結婚の前にユダヤ教からカトリックに改宗していたために生き延びました。

終戦後にイレーヌの手にこのルノワールの絵が戻ったのですが、彼女は過去は思い出したくないかのようにすぐ手放したそうです。

あの絵の少女を見た時、その人生がこれほどまでに波乱万丈であったことを想像できる人はいないでしょう。

 

19世紀フランスのバルビゾン派の中心とも言われる、ジャン=フランソワ・ミレーの「種をまく人」も誰もが覚えがある絵でしょう。

特にピューリタン精神が根強いアメリカや、清貧を重んじる日本での人気は高いものです。

しかしミレーがこの絵を描いた19世紀半ばのフランスの絵画界では、そのような農民の生の姿を描くということはほとんど認められないものでした。

サロンでの絵画の鑑賞者たちは都会のブルジョワジーで、彼らは農民などは嫌悪感をもってしか見ないものでした。

ミレーはそれに挑戦することで画家としての存在感を示しました。

彼は、「農民画家」のように言われていますが、自身は農業に携わることもまったくなく、地元の農民と付き合うこともありませんでした。

 

ゴッホの名を知らない人はいないでしょうが、彼は生涯で油彩画だけで900以上描いたのですが、生前に売れたのはそのうちの1枚だけでした。

ほとんど収入も無いゴッホの画家としての活動を支え続けたのは弟のテオでしたが、そのためにテオは非常に苦しい生活を送ることになりました。

結局自殺未遂から傷口が悪化して死亡することになるのですが、弟もその後すぐに精神状態が悪化し、精神錯乱状態のまま若くして亡くなってしまいます。

ゴッホの名声が高まるのは、死後10年以上が経ってからのことでした。

 

あまり絵の裏側を知ってしまうと楽しく眺められないようです。

 

人騒がせな名画たち

人騒がせな名画たち

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