爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

またも飲酒運転で悲惨な交通事故、しかし「飲酒」が一番問題だと思っているとこういう事故は無くならない。

千葉県八街市で学校帰りの小学生の列にトラックが突っ込み、2人が死亡、3人が重軽傷という悲惨な事故が起きました。

 

午後の帰宅時間帯であるのに、その運転手が酒酔い状態であったということで、報道などは「飲酒運転」であることを強調しその問題点を主張しています。

 

飲酒運転については、言われている通りに危険であり許されないことはもちろんです。

そのような反社会的とも言える行動をした人間に子供が生命を奪われたということには強い怒りを感じます。

 

ただし、その現場の映像などを見ていると、「酒」がすべて悪いかのような報道も少し違うのではないかと感じてしまいます。

 

車がスピードも落とさずにすれ違える程度の道幅があるのに、歩道も路側帯表示も無く、歩行者は道の端を歩くしかないようなところです。

この、あまりにも歩行者軽視の道路管理、それもこの事故の大きな要因ではないでしょうか。

 

あの程度の道路であれば、両側に頑丈なガードレールを設置した幅1m程度の歩道を付けて、そこを歩行者が通る程度の設備を作るのが当然ではないでしょうか。

しかも、それが小学校などから続く道で子供たちも多く通行するのであれば、何をおいても真っ先に取り掛からねばならないことでしょう。

 

もしもそれで自動車の通行が少し不便になっても、その程度の不便は誰もが納得して受けるべきものでしょう。

 

さて、「飲酒」「道路管理の怠慢」それぞれがこの事故の大きな要因ではあります。

しかし、それは言ってみればあくまでも「共犯者」程度のものです。

テレビ報道の傾向のように「それが主犯」ではありません。

 

何が「主犯か」

それはこのように多くの人々の命を奪うことが簡単にできるような巨大な鉄の塊を平気で子供たちの生活空間の中にまで走り回らせている「車社会」であるということです。

 

この便利な「車」というもので、私たちの社会は多くの利便を享受しています。

しかし、そのために奪われた命、死なないまでも不具となった人々は膨大な数に上ります。

もはや車の動きを制限するということすら、考えてみようともしない。

それが何故なのか。

こういった犠牲者の上に成り立っている車社会の恩恵を手放したくない社会全体の人々に責任はないのか。

それを考えてみる必要があるのではないでしょうか。