「利己的な遺伝子」で良く知られるドーキンスですが、その出版の直後に続けて書かれたのがこの「遺伝子の川」です。
1995年の出版ですが、文庫版としては2014年になって発行されました。
文庫版あとがきとして、訳者の垂水雄二さんが「内容は古びていない」と書いていますが、まあ部分的にはそういったところはあったとしても、全体としては言えるでしょう。
同年の生物学者、スティーブン・ジェイ・グールドはすでに鬼籍に入ってしまいましたが、グールドとドーキンスは激しい論争を繰り広げてきたそうです。
ドーキンスの特徴は、「利己的な遺伝子」「遺伝子の川」といった比喩表現が巧みであることです。
そのため、多くの読者をひきつけたのですが、一方ではその比喩が誤った印象を与えてしまうこともあり得ることです。
グールドとは立場が異なったとはいえ、対「創造論者」では共闘していました。
それはこの本の中でも随所に見られ、創造論者の理屈を激しく批判しています。
たとえば、「眼のような複雑な組織が偶然の遺伝子変異でできるはずがない」という創造論者の指摘にも、「中間的な眼の存在もあり得る」ことや「ごく短期間の遺伝的変異で高度な機能が獲得できる」といった論拠を示しています。
「遺伝子の川」という表現でも、最初の川が流れを分けていくという樹状の構造を想像すべきではないとしています。
二人の親、四人の祖父母という具合に祖先の数を数えていくと、世代数を少なく見積もってもイエスの時代まで80世代が居るのですが、それがすべて重複しなければ2の80乗、すなわち1兆の1兆倍にもなります。
そんな人口があり得なかったとすれば、それはいとこ同士の結婚が非常に多かったことに他なりません。(さすがにドーキンスはそれ以上近い関係での結婚は書いていません)
つまり、「遺伝子の川」の流れはどんどんと分岐していくのではなく、分かれてはまた合流するというイメージだということです。
また、これも創造論者との論争に関する話の中でのことです。
遺伝についての話をすると、彼らは「科学者はどのように?という質問には手際よく答えるが、なぜ?という問いにはどうもお手上げのようだ」と言いがちです。
これは、ドーキンス博士の同僚、アトキンズ博士がエディンバラ公の前で講演したおりにもエディンバラ公から問われたものですが、アトキンズ博士はかなり軽くあしらってしまいました。
科学に関しては「なぜ」と問うのはまったく的外れだと答えたそうです。
なお、ドーキンスは一般への啓蒙も巧みだったということですが、その一方で論旨は「論理の徹底性は確固としている」そうです。
そのせいか、「読みやすい」とあるにも関わらず、かなり「読みにくい」部分もあると感じました。