爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ヴィクトリア朝の子どもたち」奥田実紀、ちばかおり著

イギリスのヴィクトリア朝といえば、ヴィクトリア女王が即位した1837年から亡くなる1901年までの64年間を指します。

日本でいえば江戸時代末期から明治時代前半にあたります。

イギリスでは産業革命による社会の変化がかなり進み、農村から都会への多くの人々の移動も起こりましたが、労働環境や住宅環境はまだ劣悪なままの状態でした。

そのような時代の子どもたちはどういった状況だったのか、いろいろな方向から描いています。

 

 なお現在でもイギリスは階級社会であることは有名ですが、当時も上流階級、中産階級、労働者階級の差は大変大きいものでした。

そこでこの子どもたちの描写も階級別に分けて書かれています。

 

ヴィクトリア朝の時代には産業社会と変わったことでそれ以前と社会構造自体がかなり変化しました。

そもそも、中産階級と呼ばれる人々が非常に増加したのもこの時代からです。

そして父親が外で働き母親は家庭で召使を監督して子供を育てるといった家庭観が成立したのもこの頃でした。

 

裕福な家庭では子どもを育てるのは母親ではなく使用人でした。

子どもの世話をする使用人を「ナース」と呼び、乳を与えるのが「ウェット・ナース(乳母)」、子育てを担当するのが「ドライ・ナース」と区別されていました。

乳母は給料が良かったため、乳母になりたいために意図的に妊娠する女性も数多く、産まれた子どもはそのまま救貧院に預けられるということになりました。

そのまま死亡してしまうケースが多かったため1872年に「幼児生命保護法」が制定され、この法律は現在でも有効です。

 

当時の児童文学などでも孤児が多数描かれていますが、実際に非常に多かったようです。

19世紀半ばの労働者階級では実に8%の子どもが15歳までに両親を亡くし、およそ30%以上が片親を亡くしていたそうです。

引き取る親戚が居れば良い方で、行くところは救貧院しかありませんでした。

 

上流階級や裕福な家庭では5歳ごろからは家庭教師が教育を行いました。

そして11歳から18歳くらいまではパブリックスクールで教育されました。

しかし中産階級はそういった学校には入ることができず、新しく作られた寄宿学校に入りました。

ただし玉石混交で程度の悪い学校は金ばかり取って大した教育もできなかったようです。

なお、女子の場合は学校はほとんど無く、上流階級でも家で家庭教師から花嫁修業的なことを教えられるだけでした。

 

労働者階級では子どもでも働かなくてはいけませんでした。

早ければ5歳、遅くても7歳くらいになると工場などに働きに出ました。

非常に悪い環境で長時間働かされるため、身体のどこかに障害を抱えるということになりました。

さすがにこれではいけないということになり、1833年には子どもの保護を定める工場法が制定されました。

しかし工場側はなかなかそれを守らなかったようです。

働く子どもの中でも最底辺の仕事と言われたのが煙突掃除でした。

石炭の煤で汚れた煙突を掃除するには身体の小さな子供が向いていました。

しかし怪我はもちろん火傷をしたり皮膚がんになったりと非常に危険な仕事でした。

 

なかなか厳しい時代だったようです。