セクハラ発言など数々の舌害で問題を起こしている森喜朗五輪組織委員会会長ですが、その別の発言にも考えさせられるものがありました。
セクハラ発言のちょっと前だったと思いますが、開催の可否について尋ねられた際に「五輪中止を言う人は無責任だ」ということを言ったそうです。
この報道を見てなにやら大きな違和感を感じたのですが、それについていろいろと考えてみました。
ポイントは「責任感」です。
人間は社会的動物とも言われますが、社会を成り立たせている一つの要素が「責任感」でしょう。
一人だけで生きていればなんの責任も生じないのですが、複数になったとたんに責任というものが発生しそれに左右され縛られるようになります。
特に日本人はその意識が強いのでしょうか。
「無責任だ」と言われるのはとてつもなく恥辱を感じるような心理があるようです。
ただし問題なのは、何に対する責任かということは多数存在し、中には相反するものもあるということです。
たとえば、暴力団のような反社会組織に所属する人にとって、その組織に対する責任感というものはその他の社会にとっては有害で認めることができないということはすぐにわかることでしょう。
ここで、上記の森会長の責任感に戻ります。
森会長は政権の誰かから五輪組織委員会の会長を任されました。
いくら無給といえ、そこで大きな責任を負ったと感じるのは当然であり、その時には五輪開催遂行ということが彼の責務であったことは疑いないことです。
ところが、五輪開催を強行することが社会にとって、いや世界人類にとって感染症拡大の観点から脅威ともなりうる状況となりました。
五輪組織委会長としての責任と、人類の一員としての責任とはここで相反してしまったと見るのが当然でしょう。
さらに彼の次の発言には大きな問題が含まれています。
「五輪中止を言う人は無責任だ」
自分自身はまだ二つの相反する責任を抱えているという状況ですが、他の人がなんの責任を持っているかということは、森ごときが知るはずもありません。
「なんで他人の責任感について述べることができるのか」
ここが森発言に大きな違和感を感じたところです。
おそらく彼の意識の中では周囲の他人もすべて自分と同じ責任感を持っているという思い上がりがあるのでしょう。
そしてそれは彼ばかりでなく政権担当者やその他の権力者たちにも共通しているように感じます。
なお、森のセクハラ発言に関して論評している人の中に、彼の「老害」について語っているものがあります。
これはサラダ坊主さんが指摘しています。
ジェンダー差別を糾弾しながら自らは「年齢差別」に陥っているという恥ずかしい状態です。
気を付けなければいけないところでしょう。