「おみやげ」というのは日本では身近なものですが、世界的に見るとかなり変わった風習のようです。
英語に訳そうとすると「souvenir」(スーヴェニア)とするのでしょうが、実は欧米でのスーヴェニアというものは、旅の思い出として自分自身のために買うものという意味が強いもので、日本人が通例「おみやげ」として買ってきては家族や友人知人、職場の人々などに配るお菓子類というものとはかなり異なるもののようです。
ハワイのマカデミアナッツチョコレートがあるではないかと言われそうですが、これも実はハワイ在住の日系人が作り始めたもののようで、やはり日本の影響がありそうです。
そして、本書題名ともなっているように「鉄道」というものも今の「おみやげ」文化形成には大きく関係しているものです。
そういった観点から、日本の「おみやげ」文化というものがどういった風に出来上がってきたのかを解明していきます。
旅というものが広がってきた江戸時代には、各地で名物が誕生し、さらにお土産というものも売られるようになります。
しかし、名物といっても食品はその場で食べるしかなく、神社仏閣、街道の茶屋などで餅・団子・饅頭といったものが名を知られるようにはなってもそれを持って帰るお土産はあり得ませんでした。
持ち帰る土産として買われたものは楊枝や団扇といった非食品の手工芸品で、軽くかさばらないものというのが最重要でした。
伊勢神宮の伊勢暦、万金丹、煙草入れといったものが代表的なものです。
そういった状況が変化したのが鉄道の開通による移動状況の進化です。
特に明治22年(1889年)の東海道線全通は大きな変化を起こしました。
乗客の移動だけでなく、貨物の輸送も始まり食品流通も増加しました。
ただし、「お土産」としての食品の登場はまだ早かったようです。
とはいえ、沿線の業者は徐々に商品の改良につとめ、持ち帰り可能な食品を販売するという動きを強めていきます。
明治期の東海道線各駅の名物として、明治39年の「風俗画報」という本では次のものが紹介されています。
大船 サンドイッチ、国府津 イカの塩辛、山北 鮎寿司、御殿場 名物蒸饅頭、沼津 鯛でんぷ、静岡 山葵漬け、浜松 浜納豆、豊橋 玉あられ、岡崎 八丁味噌、名古屋 宮重ダイコン、岐阜 鮎の粕漬け、大垣 柿羊羹、米原 姥が餅、京都 蕪千枚漬け、大阪 雀寿司、神戸 玉蓮
現在まで続いているものもあり、消えてしまったものもあります。
しかしこの時期にはある程度「名物」として確立する動きが強く出ているようです。
なお、それまで名物とされていたものでも、交通体系の変化についていけないものは急速に衰退していました。
金谷と日坂の間の小夜の中山では、江戸期から飴の餅と呼ばれる、二枚の焼餅で水飴を挟んだものが名物として名を知られていたのですが、東海道線の線路から小夜の中山が外れるとほとんど忘れられます。
また、山北の鮎寿司は鉄道開通とともにその沿線屈指の名物として成長したのですが、のちに丹那トンネルの開通で東海道線ルートが熱海経由に変更されると一気に衰微してしまいます。
またこの時期には鉄道に入り込み商売をするという「エキナカ」が早くも沿線業者の注目を集め、手を尽くして営業権を得ようとしています。
駅弁の立ち売りが有名ですが、同時に名物を売るということでホームで買うことができるようになります。
現在まで銘菓として知られる、京都の八つ橋、伊勢の赤福などもこの時期から形を作り発展させていきます。
しかし、赤福はその生菓子という性格からなかなか持ち帰りの土産として成立せず、現地で食べる名物からの脱却はかなり遅れます。
ところが、天皇制強化と軍国主義の発展により、伊勢神宮が地位を高め、その参拝客が増加すると、赤福もどんどんと勢力を伸ばすことになります。
天皇や皇族の伊勢参りも相次ぎ、そこに赤福を献上するといった方策を取り、さらに知名度を上げて売れ行きを伸ばします。
また、修学旅行の行先としても伊勢が選ばれることが多くなり、その生徒に売り込むということも行われました。
日本が発展するということは、国内の人間の移動が増加しあちこちに出かける人が増えることでもありました。
そういった人々は行った先でお土産としてその地の名物を買うということになります。
そのためにこれまでは何の名物らしきものも無かったようなところでも、無理やり作り出すということになります。
北海道根室本線の池田駅は明治37年に開業していますが、そのわずか2年後には当地の米倉という人物が構内営業を許され「ばなな饅頭」を売り出しています。
もちろん、その地にバナナなどあるはずもなく、風味だけをつけたのですが、それでも存在価値があったのでしょう。
また、日清戦争の結果日本領となった台湾でも、徐々にそういった土産用品が作られます。
領有後すぐの明治40年の台湾名所案内というガイドにはほとんど名物や土産物は取り上げられていませんが、昭和15年の同様のガイドには沿線の名物が掲載されています。
ほとんどが手工芸品ですが、中には桃園の弁天餅、花蓮港の吉野羊羹など日本内地同様の名物菓子も登場しています。
しかし、戦後の台湾ではそのような菓子類は作られることがなく、やはり日本独特の風習だそうです。
本書では他にも佐賀の小城羊羹、成田の栗羊羹、伊香保の温泉饅頭、といった現在では有名な名物となっているものの発展の経緯も記されています。
どれもこの時期に確立され、売れていったようです。
その後、自動車交通が優勢となっていくにしたがって、それまでの鉄道での販売からドライブインや高速サービスエリアでの販売に移行するなどの変化がありました。
なお、ドライブインというものが昭和30年代から隆盛をしたものの、高速道路が伸びるにしたがってあっという間に消えていったというのも、そういえばと思わせるものです。
また、団体旅行というものが1990年代までは優勢だったのですが、その後は個人旅行が増えていきます。
お土産文化というものが、団体旅行に付随するものだったとすれば、もはやお土産などはあまり売られなくなってきそうですが、いまだに各地の観光地、駅、空港、サービスエリアでは多種のお土産品が売られています。
ただし、かつてのようなどこでもある菓子類もあるものの、個性的な手工芸品も売られており、こういったものは欧米的なスーベニアとして買われることもあるようです。
とはいえ、近年でも旅行から帰ると周囲にお土産を配るという習慣は根強く、まだまだそういった類の品物は存在価値を保持しているようです。
「おみやげ」という言葉には色々な意味が込められているのでしょうが、それに関する様々なものを詳しく調べ整理した、中々の労作と感じました。