小説家ですが随筆でも多くの作品を書いている阿刀田さんは、「知っていますか」シリーズも何冊も書かれていて、「ギリシア神話を」「コーランを」「旧約聖書を」といった古典・宗教ものもあり、この本もその一つです。
その宗教の信者ではない阿刀田さんですが、だからこそ客観的な目でこういった宗教原典を見ることもでき、我らのような異端の者からも分かり易い解説となるのかもしれません。
「新約聖書」は言うまでもなくキリスト教の根本となるものですが、よくホテルのテーブルの引き出しなどに入っているのを見たことはあっても異端の日本人としてはほとんど読むこともないもので、内容などは全く知りません。
しかし、現代の欧米の社会でも聖書の知識があちこちに存在するということも間違いのない事実であり、やはりちょっとは知っておいた方が良いのかなとも思わせるものです。
そういう意味では、異端者がざっと聖書の概要を掴むという目的のためにはこの本は非常に使いやすく、分かり易いものであると言えるでしょう。
聖書を手に取る日本人ならたぶん誰もが感じる疑問から始まります。
最初の「マタイによる福音書」の冒頭部分は、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟を」から開始し、延々と系図を連ねます。
そして、最後に「マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた」となるのですが、そのすぐ後に続くのはマリアの処女受胎です。
「ならこの系図はなんの意味があるんだ」というのが普通の日本人読者の感想でしょう。
私もかつてまったく同じ思いを抱きました。
阿刀田さんもそれと同じことを書いています。「じゃあ長々と記した系図はなんのためだったのか」
どうやら、聖書と言うものの成立の経緯がこういった形を作り出してしまったようです。
イエスの死後(復活後というべきか)各地で広まっていったキリスト教ですが、福音書が何種類もできたように様々な話がたくさんあったはずですが、それを何とか取捨選択してまとめたものが聖書となったので、もともとそれほど辻褄があったものではなかったはずです。
受胎告知を受けるマリアというものも、後の世の多くの画家たちの創造意欲を掻き立てたようで、あちこちにその場面を描いた絵画が残っています。
阿刀田さんの一番のお気に入りは、フィレンツェのサンマルコ博物館にある、フラ・アンジェリコのもので、マリアの表情が少し硬く見えるところが良いようです。
他にも、ボッティチェリ、レオナルドダヴィンチ、マルティーニ等々多くの絵が残っており、イタリアなどを旅行するとそれらを見て歩くというのも素敵な体験であるようです。
十字架にかけられ死刑にされたイエスは墓に葬られたものの復活するのですが、その「墓に葬った」経緯というのは知りませんでした。
イエスは一旦絶命するのですが、その遺体を引き取るべき弟子や家族たちは難を怖れて逃げ去ってしまい、誰も引き取ろうとする者がいなかったそうです。
そこで、アリマタヤのヨセフという人が見かねて遺体を引き取ることになりました。
ヨセフはイエスの信者ではなくエルサレムの有力者の一人であったそうです。
彼がイエスの遺体を下ろし墓に入れました。
ところが、聖書にはアリマタヤのヨセフに関してはこの行為を簡単に記したのみでほとんど記載されていないそうです。
さすがに阿刀田さん、普通ならあまり気にしないところまで読み込んでいます。