内田樹さんのブログ、「内田樹の研究室」で、内田さんが出版されたばかりの「日本習合論」という本について、販促と称して解説がされていました。
blog.tatsuru.com先月発売されたばかりのようで、まだ湯気が立っているような本ですが、ちょっと高いようで買うのは控えておき図書館に入るのを待ちましょう。
さて、文の内容ですが、まず最初には本でも冒頭で語られている「共感主義」についてです。
「共感主義」、「事大主義」とも似ていますが、「多数派が必ず正しい」と信じることだそうです。
「長い物には巻かれろ」ということわざとも共通する心情があります。
内田さんは私より少し年長の方ですが、その若い頃の感覚ではかつての日本はこの考えに支配されていました。
「身の程を知れ」「おのれの分際をわきまえろ」「身の丈に合った生き方をしろ」という言葉が内田さんの子供の頃にはよく聞かれていたそうです。
それが、いつの間にかまったく逆の話ばかり聞こえるようになりました。
1960年代、高度成長の只中の頃からだそうです。
「身の程を忘れ」「おのれの分際を越えて」「身の丈に合わない大きな仕事をする」方が良いことだという感覚になりました。
しかし、21世紀に入ったあたりから、またかつての言葉がよみがえってきました。
それは、単に日本が貧乏になったからだとしています。
このような雰囲気の中では自由闊達な行動は排除されます。
内田さんは他の学者から「専門外のことに口を出す」から嫌われるということです。
また、最近では小田嶋隆さんが財務大臣を批判する文を書いたら「そんな批判は自分が財務大臣になって言え」というとんでもない批評を受けるようになったということです。
つまり、「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になってからにしろ」と言っているわけです。
これは没論理的だとしています。
結局、このような共感主義というものは、自分に割り当てられたポジションからは出るなという圧力です。
こういった「和を貴ぶ」という風潮は、決して多様なものが自由に動き回って出来上がる「和」ではなく、
決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。
ということです。
内田さんは最後に「共感なんてしなくてもいいじゃないか。共生し協同できればなんらかの”よきもの”を社会に送り出すことができる」と書いています。
今もドラマでやっていますが、まさに太平洋戦争中の日本の社会は一つのものだけに絞られ異論は許されなかった。
それが破滅への一直線の道だったことは明らかです。
今の日本も生命力を失い衰弱へ向かって落ち込んでいるところなのでしょう。