爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「終わっとらんばい!ミナマタ」矢吹紀人著

水俣のすぐそばに暮らしながら、水俣病というものにほとんど無知のまま過ごしてきた私ですが、ようやく今になって徐々に勉強しなおしです。

 

この本は、ルポライターの矢吹さんが、水俣協立病院の創立当時から看護師として活躍してこられた、山近峰子さんの人生を描きながら水俣病、そして水俣という地域がどのように動いてきたかをたどっています。

 

山近峰子さんは、水俣の出月というところで1953年に産まれました。

父親は畳職人でしたが、母方は網元、周囲にも漁師が多いという環境でした。

そして、多くの人々が水俣病を発症し、同年代には胎児性水俣病患者の人々も居ました。

そして、魚が大好きだった父親も60にもならないうちに脳梗塞のような症状で寝たきりとなり、その後水俣病であったことが分かります。

家に診察に来てくれたのが藤野糺医師で、その後藤野医師は水俣病患者のために水俣診療所を開設します。

峰子は准看護婦の資格を取り病院で働くのですが、その後藤野医師の診療所に参加することになります。

そして、それは水俣病の患者を診察しながら国やチッソと闘っていく歴史となります。

 

水俣病の原因がチッソからの排水に含まれていた水銀がメチル化したものだということが認定されたのは昭和43年(1968年)9月ですが、実はその4か月前にチッソ水俣工場はその原因となっていたアセトアルデヒド製造を中止したのでした。

それまで全く分かっていなかったわけではないのでしょうが、まるで時を合わせたかのような対応でした。

その当時の水俣病かどうかの認定もまだ確固としたものではなく、症状も様々なものであることが分かりつつありました。

しかしあまりにも多くの人が水俣病患者として補償を受けることになることを怖れたチッソ、そして国や県は水俣病の判定基準を異常に厳しくすることで認定患者を減らそうという手段に出ます。

それが昭和52年(1977年)に出された判断条件です。

これにより、神経症状など一つだけの症状があるだけでは水俣病と認定されず、いくつもの症状が皆出ていることが必要とされました。

この結果、多くの患者が水俣病とは認定されずその後も認定を求めて裁判を繰り返すということになります。

 

こういった政府の姿勢の裏には、水俣に続いて水銀中毒が判明した新潟だけでなく、他の多くの地域(有明海山口県徳山市など)でも第三第四の水俣病らしき患者が出始めたという事実がありました。

水俣病の判定基準も厳しくして認定制限をすることでこのような他地域への波及も絶つ意味があったようです。

 

水俣診療所、そして改組した水俣協立病院では、水俣病患者の訪問看護、そして他地域へ出かけての診察などの事業を繰り広げていきます。

その活動により、水俣だけでなく付近の広い地域で同様の症状を示す患者が多いことが明らかになっていきます。

水俣病認定基準で、住んでいた地域により門前払いをしていたのですが、これも全く不当であることが証明されていきます。

中には、水俣から離れたかなり山の中にも見られることが分かりました。

このような山奥でもそれほど魚を食べていたのかと不審でしたが、実際は水俣から行商でイワシなどを売りに来る行商人が何人かいて、それで買った魚を大量にたべていたのでした。

 

峰子さんのお父さんも長い闘病生活の末に亡くなりました。

火葬をしたのですが、遺骨がまったく形をとどめずすべて粉々に砕けたそうです。

 

その後も患者認定を求める人々と、少しでもそれを抑えようという国との間の闘争は続きます。

医療費だけは無料にしようという妥協案なども出されます。

そのような状況が続く中で、患者はどんどんと高齢化していきます。

このまま皆が亡くなるのを待っているのでしょうか。

 

まったく「まだ終わっとらんばい」です。

 

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