爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

マツタケが絶滅危惧種に、自然が荒廃したから?

マツタケがIUCN(国際自然保護連合)によって絶滅危惧のレッドリストに指定されたという報道がされました。

これでマツタケが採れなくなるとかいうことはないようです。

 

しかし、これは採りすぎたとか、森が荒廃したからとかその理由も言われていますが、これは見当はずれのようです。

以下の記事が内容も当たっているようです。

news.yahoo.co.jp森林ジャーナリストという、田中淳夫さんという方が書いていますが、さすがに間違いがないように見えます。

 

「健全なマツ林が減っているためと言われているが、アカマツという木は痩せた土地に生える。マツタケもそういった土壌を好む」ということです。

 この辺の事情も田中さんが書いている通り、次の要因が大きかったようです。

マツという樹種は、痩せた土地に生える。戦前マツばかり生えている日本の山を見て「赤松亡国論」という言葉が流行った(アカマツばかり生えているのは山が荒れている証拠で国力を失っている、という意味。林学者の本多清六の意見に対してつけられた言葉)ことがある。

 なぜ、日本の山が痩せていたのか。それは江戸時代から過度な草木の採取が続いたからである。

 当時は建物だけでなく多くの道具の素材を木材に頼り、またエネルギー源もほとんどが木質だった。大量の薪や木炭を消費したのだ。日々の煮炊きや暖房から産業に供する燃料まで、何もかも木々に頼っていたのである。大坂の町で使われる薪は、遠く四国や九州から運ばれていた記録もある。江戸も同じく東北・関東一円からエネルギー源として薪や木炭を集めていた。

 さらに農業でも、落葉だけでなく草や枝葉を切り取って堆肥にした。むしろ草の方が堆肥に向いていると、木々を切り払って草山にするほどだった。

 かくして山の土壌は栄養分を失い、末期的状況に陥った。そこに生えられるのはマツぐらいしかなかったのである。

 これは最近読んだ江戸時代の里山事情を描いた本でも言われていたことでした。

「江戸・明治 百姓たちの山争い裁判」渡辺尚志著 - 爽風上々のブログ

ただし、こちらの本では下草の肥料としての利用に重点を置いていたものでした。

 

そして、マツタケが生える場所もこういったマツと菌根を形成している関係上、同じようなところだけに限られており、しかも他のキノコ類と比べても生命力が弱いものですから、他の植物やキノコが生えにくい痩せた土壌が好みだったのでしょう。

 

してみると、マツタケが多く生えていたところと言うのは、どうやら過度に山林から様々なもの(草・枝・木)を奪った後の生産性が低下した山だったようです。

 

マツタケの産地と言えば今では長野が有名ですが、かつては近畿や中国地方でした。

古代から早々と開発が進み、栄養分を失ってマツ山と化した近郊の山で他のキノコが生えなくなって旺盛に繁殖したものだったのでしょう。

 

私の両親が長野出身だったもので、かつて実家に居た頃は親戚から送ってくれたマツタケを食べたものでしたが、結婚してからは妻が九州出身でほとんどマツタケ料理になじみがないため、まったく食べなくなりました。

ほんの少しだけ郷愁とともに食べてみたいかなという感覚もありますが、無理して食べるほどのものでもなくなりました。