爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「東アジア仏教史」石井公成著

日本から見て仏教が伝わった歴史と言えば、鎌倉時代東大寺の学僧、凝然(ぎょうねん)がまとめた「三国仏法伝通縁起」などの見られる、天竺(インド)→震旦(中国)→本朝(日本)という図式がもととなり、それにせいぜい百済を加えた仏法伝来の道筋を示すだけのものになりがちです。

 

しかし、その本当の姿からは、インドから西域諸国に伝わったというルート、さらに南方ルートが抜け落ちています。

さらに、それらの国々でも伝わった仏教をそのまま流しただけでなくそれぞれで独自の仏教を生み出しており、それも考慮しなければ仏教全体を見渡すことはできません。

 

さらに、一度伝わってきた仏教がそのまま各地で残っていたわけではなく、その地域でいろいろな変化をしていくという変遷もあり、またそれがかつて伝わった元の地域に逆流するということも起きています。

これらの全体像をとらえるためには、各地の仏教の進化と相互の交流を見ていかなければ理解が進みません。

 

本書では「東アジア」を主としていますので、中国と朝鮮、日本、モンゴル、ベトナムなど中国と影響し合いながら仏教を信じてきた各地の記述が多く、南アジアなどの仏教についてはさほど触れられていませんが、それでも情報量は極めて多く、簡単に消化できるようなものではありませんでした。

 

辛うじて日本の仏教史の概略だけは頭にあった私にとってもそれが中国や朝鮮の動きとどう関わるかといった点は知らないことばかりでした。

 

本書内容を簡単にまとめるということも不可能ですのでそれは諦めて特に印象深い点のみを書き留めておきます。

 

中国の3世紀以降、五胡十六国時代という時期には仏教を信奉する王朝が多く西域からやってきた僧も多く活躍しました。

彼らは出身地によって、竺(インド)、安(パルチア)、康(サマルカンド)、支(大月氏)などの姓を名乗っていました。

彼らに従って出家した漢人も師の姓を名乗っていたのですが、道安(4世紀の漢人僧)は出家は釈尊の弟子であるから姓は「釈」と名乗るべきだとし、その習慣は広がっていきました。

今でも浄土真宗などにその名残が見られるようです。

 

中国の中世までの仏教は繁栄と廃仏の繰り返しでした。

王朝の交代時ばかりでなく、同じ王朝の中でも皇帝が代わるとそれが入れ替わるということも起きました。

廃仏の嵐を受けると仏教界は反省をし、信仰を見直すという動きが出ました。

それが北周の廃仏に続き中国出身者による宗教集団が産まれてくるということにつながりました。

禅宗もインド出身の菩提達摩に始まると言われていますが、実際はその弟子の中国出身の慧可によるものです。

この禅宗の興隆が中国独自の仏教の確立とも言えます。

この時期(6-7世紀)には周辺の国々でも独自の仏教が産まれ進展していく時代と言えます。

 

7世紀には唐からインドに渡り当時最新の仏教に触れた玄奘が帰国し、熱狂的な歓迎を受け経典を新たに訳しなおすという活動を繰り広げました。

しかし、インド固有の身分制度に影響を受けた仏地経論では人には五種の区別があり仏になるかどうかはそれにより決まっているという経論には仏教者から多くの反発を受けることになります。

なお、これはインドの文献にはそのままの経論は見られず、玄奘がインドで見聞きしたものを取り入れて書いたものである可能性が強いようです。

以降はこの系統は中国ではほとんど残らず、新羅と日本で盛んになることになります。

 

唐代以降は中国では禅宗が栄え、それは周辺国にも移っていきました。

ベトナムでも禅宗が流行し独自の宗派も生まれていくことになります。

 

今ではかなり限定的な勢力とはなっているものの、中国を中心とした東アジア地域では歴史的に仏教の影響がかなり大きかったことが分かります。

その力が衰退したのは日本では江戸時代にキリスト教禁止の手段として仏教を支配の道具としたためにかえって宗教の力は弱まったことによりますが、他国でも事情は異なっていても近代の国家形成とは相容れないものがあったのでしょう。

宗教としての力を取り戻すことができるのかどうか、まだ可能性はあるのかもしれません。

 

東アジア仏教史 (岩波新書)

東アジア仏教史 (岩波新書)