コピペすなわちコピーアンドペースト、それと捏造というのは必ずしも同じ程度の不正とは言えませんが、種々の「表現」という行為に付随して現れてくるものです。
著者の時実さんは、化学系の学術研究に関する不正行為の調査を進めてこられたそうですが、このコピペも捏造もそういった分野では常に付きまとうものです。
しかし、それ以外にも社会の多くの場面でこの双方の不正行為が関わってきます。
ただし、それらの中には「パロディー」や「本歌取り」など不正とは捉えられていないものもあり、その境界は不明確でどちらとも決めかねる場合も多いようです。
コピペ、コピーエンドペーストとは、コンピュータ操作からきた言葉でしょうが、ネット情報が周囲に溢れるようになり誰にとっても身近なものとなってしまいました。
パクリ、パロディ、オマージュと、似たような状況を示す言葉がいろいろとありますが、どこからどこまでが許させるものか、違法なものか、微妙なことが多い状況です。
・バレて困るのがパクリ
・バレると嬉しいのがオマージュ
・バレないと困るのがパロディー
だそうですが、うまいことを言うものです。
それは、その環境によっても大きく異なり、デザインや文学、音楽、科学など厳しいところと寛容なところの差も大きいようです。
文学関係では、パクリ、盗用などの事例は数限りなく起きていました。
島崎藤村の「夜明け前」の導入部の文章とそっくりのものが江戸時代の紀行作家秋里離島という人の「木曽路名所図会」という本にあります。
松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭部の有名な「月日は百代の過客にて」という文章も李白の漢詩とそっくりです。
しかし、著作権意識がはるかに強まった現代でも、盗作という問題はしばしば起きています。
山崎豊子などもしばしば盗作問題を起こしていたそうです。
無名作家や素人の原稿から有名作家が盗用するという事件も数々あり、どうせばれないだろうとたかをくくってやってしまうということがあります。
また、アシスタントやゴーストライターといった人々による盗作問題も後を絶ちません。
音楽では、非常に限られた範囲内で音符を配置していくということもあり、似ていると指摘される楽曲が頻発します。
通常の楽曲は1、カノン進行にのっとる、2、ヒットする歌詞をちりばめる、3、イントロ、メロディA、メロディB、サビを組み合わせる、4、オリジナリティという構成で作られており、1から3はどの曲でも大差ないのでオリジナリティを活かすといっても限度があります。
問題は、作曲家自身も長く作っていると自分自身の曲で似たようなものを作ってしまうことで、猪俣公章の五木ひろし「愛の始発」、森進一「妹よ」や飯田景応の東海林太郎「なき笑ひの人生」、田畑義夫「泣くな姑娘」などの類似作品が作られています。
コピペはネット情報が氾濫するようになってさらに大きな問題となってきました。
学生が授業でレポート提出を求められてネットからコピペで集めたもので作るなどと言うことは頻発するようになっています。
間違った情報をそのままコピペするため、同じように間違えたレポートがいくつも提出されるといった話もよくあることです。
情報引用と言うことは許されることですが、それには条件があり引用であることを明示し引用元を明記しなければなりませんが、そういった作法を教えられないままやっている例があり、教える側の意識も問題となるようです。
小中学などの早い段階からそういった基本を教えるべきですが、教師自身にその認識が薄い例も多く、きちんとした教育ができていません。
その結果、大学まで基本が身についていないまま来てしまい、卒論にまでそれが見られる例もあるそうです。
コピペレポートの問題点は、著作権についてのものもありますが、正確性のない情報を見抜く力もないまま使ってしまうこのもあります。
ウィキペディアも記載事項が間違っている例は頻発していますが、それを鵜呑みにしてしまうのもよくあることです。
著者のはっきりした書物などであれば、その情報の責任も明確であり信頼性も上がるのですが、ネット情報ではその原則が守られません。
学生の問題は「困ったものだ」で終わるかもしれませんが、政治家や役所が無自覚にそれを使ってしまい、大きな事件となる場合もあります。
政治家の海外視察の報告書などもそのコピペが横行しており、間違いをそのままコピーしたものもよくあることのようです。
パロディという分野では、原作者とパロディ作者との間で裁判などの紛争となることも多くあります。
日本では有名なマッドアマノによるパロディ写真事件というものがあり、写真家の白川義員氏の山岳写真にスノータイヤをはめ込んだ合成写真を作ったところ訴えられたというものですが、判決も二転した末に最高裁で1980年に白川氏側勝訴となり、その後の日本でのパロディ表現が極めて難しくなりました。
しかし、欧米では比較的認められる社会風潮でありそれを専門とする作家もいるようです。
捏造と改竄という行為も多くの場面で横行しており、テレビ番組でドキュメンタリーと称していながらのヤラセであったり、科学番組で結果を捏造したりという話は次から次と登場してきます。
科学分野でもこれらの行為が後を絶たないのは同様で、大きな事件も起きています。
官公庁での捏造改竄行為の頻発も著者は非常に問題視しており、多くの事件での証拠捏造改竄、さらに被告に有利な証拠の隠滅等、歯止めが効かない状況があります。
こういった行為は病理的ともいえるものであり、政治家や捜査当局は自分たちに正義があると信じているためにこのような不正行為も正義のためと信じて行うことがあると指摘しています。
日本ではパロディなどの創作性を拒む一方で有力者による捏造改竄を野放しにする傾向が強いようです。
バランスの取れた判断をする必要があるということでしょう。