まだ「桜を見る会」なんて言っている、なんて思わないでください。
内田さんもそれを十分承知の上で新たに議論を構築しています。
安倍擁護派も、批判派もいい加減に嫌になっている「桜を見る会問題」でしょう。
それはなぜか。
これは両派いずれもあれが安倍自らがやったことは明白であることは異論がなく、「それがどうした」と「だからだめだ」と言う結論だけが異なるのに対し、国会では未だに「認めるか認めないか」の段階で続いているからでしょう。
内田さんの「研究室」ではその本質を突いています。
どうして「飽き飽き」しているかというと、ふつうの人間の受忍限度を超えて、この話が続いているからである。
続く理由は簡単で、ふつうは申し開きのできない証拠をつきつけられて「申し訳ありませんでした。私がやりました」として「犯人」が白状して、火曜サスペンス劇場が終わるところで、ぜんぜんドラマが終わらないからである。
それに引き続けて、警察などの犯罪取り調べの例を披露しています。
内田さんが東京地検に勤めていた友人から聞いた話では、
「検察官から供述の矛盾を突きつけられて、顔面蒼白となり私がやりましたと白状するのは”自分は頭が良い”と思っている人間だけ。ヤクザなどは言っていることが違うと指摘しても”それは間違い、こっちが本当”と言うだけ」だそうです。
「桜を見る会」で見せられる、政治家や官僚の答弁もこのヤクザ並。
自分の知性が健全に機能していないということを「切り札」にしている人間を「理詰め」で落とすことはできない。
これは重大な事実ですね。
野党は証拠を突きつけて理詰めで攻めようとしています。
しかし、そんなことをいくらやっても、「オレたちバカだもんね」と開き直っている連中には何の効果も無いということでしょう。
裁判において弁護人が被告の「心神耗弱」で無罪を勝ち取ろうとするのと同じである。
この「愚者戦略」はこれまでのところ成功している。
と言う状態に、安倍政権は陥っているのか、戦略的に装っているのかは知りませんが。
そして、最後は次のように結ばれています。
これから後も首相は有罪を免れるために、あらゆる「申し開きのできない証拠」に対して、「論理的に思考できないふり、日本語がわからないふり」をしてみせるだろう。
この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。
いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。
先日の「募っているが募集していない」などはまさにこの状態でしょう。
ということが、内田さんによって指摘されてそれに感心したのですが、だからといってどうしようもない。
あ~あとため息が出るばかりです。