テレビではコマーシャルで「菌が、菌が」の大合唱が続いています。
それに脅されて除菌剤などで一所懸命に有害?微生物の駆除に励む人々がこの本を読んだら、自分が何をしてきたのかを唖然として見ることでしょう。
とはいえ、そういった人々が簡単に読んで理解しやすいような内容ではないのですが。
本書冒頭に「人体の90%は微生物でできている」とあります。
上述のコマーシャルの表現「菌が、菌が」はたしかに真実です。
人体の表面、消化管内部、その他外界と触れ合う部分はすべて多種多様な微生物で満たされています。
これをマイクロバイオータ(微生物叢)と言います。
この本では訳語でなく「マイクロバイオータ」で通していますが、その方が分かりやすいとの判断でしょう。
人体を取り巻く微生物のうち、ごく一部だけが病気を引き起こしますが、それでわずか数十年前までは多くの人々が死亡していました。
その悲劇を何とか少なくしようとして開発された抗生物質という薬剤が劇的な効果を発揮し感染症で死亡する人々が激減しました。
しかし、それで長生きできるようになった人類ですが、いろいろな病変が増加しています。
その原因は様々な所にあると考えられていたのですが、実は「マイクロバイオータの変化」によるのではないかというのが、本書の主張です。
マイクロバイオータという無数の微生物の集団は、これまでは漠然と考えられるのみであり科学的な研究の対象としてはあまりにも複雑で困難なものであったので、科学者の手に負えないものでした。
しかし、DNA分析技術の急速な発展で、例えば腸内細菌の構成といったものが容易に分析できるようになりました。
この技術の進展で明らかになりつつあるのが「21世紀病」とも言うべき現代人に多い病気とマイクロバイオータ、特に腸内細菌叢の構成の関係です。
多くの文明国では、感染症で死亡する人が減った代わりに、アレルギー、自己免疫疾患、消化器トラブル、心の病気、肥満が急増しています。
花粉症は5人に1人、先進国では人口の半分が何らかのアレルギーを持っています。
自己免疫疾患と呼ばれる、Ⅰ型糖尿病、関節リウマチ、セリアック病などの病気には人口の10%もの人が苦しんでいます。
また多くの国では過体重、肥満が増加しアメリカでは64%、イギリスでも67%となりました。
心の病気でも、自閉症患者が急増し68人に1人の割合で発生しています。
他にも注意欠陥障害、トゥーレット症候群、強迫性障害も急増しています。
本書ではこれらの病気を疫学的に解析してみせます。
詳細はとても書ききれませんが、非常に多くの事例と分析を重ねて、一つの結論に至ります。
それは「抗生物質の投与と関係する」です。
多くの例で、細菌の感染による胃腸障害の治療のために抗生物質を投与してやると、その感染自体は治癒しても、上記の「21世紀病」が発症するという経過をたどっています。
そして、その原因と見られるのが抗生物質による腸内細菌叢の変化なのです。
抗生物質は種類によって効き方に差がありますが、標的とする病原菌だけに効果のあるといった抗生物質は無く、似たような多くの細菌を殺してしまいます。
そのために、病原菌感染の治療のために抗生物質を投与したはずが、多くの腸内細菌を殺してしまい、腸内細菌叢の多様性が失われることになります。
そして、それこそが人体とマイクロバイオータとの共生を崩していることであり、その結果として21世紀病が発生するということです。
この仮説はまだ研究途上のものであり、学会のおおかたの賛成が得られるというところまでは来ていません。
しかし、本書に掲げられた多くの事例を見るとかなり確実なものではないかと考えられます。
実際、家畜に抗生物質を投与することで肥育が向上するということは、その因果関係は解明されないまま多くの畜産農家で実施され肥育効果を発揮してきました。
それが「耐性菌増加につながる」という理由から制限されるようになりましたが、実際は「人間の肥満」も同様なのではないか。
家畜と人間とを区別する理由はありません。
人間も特に若年期に抗生物質を投与することで、肥満するのは確かなのではないか。
そして、その理由が腸内のマイクロバイオータの撹乱なのです。
人間が太るかどうかは、摂取カロリーと運動などで使用するカロリーの差で決まると言われてきました。
しかし、腸内マイクロバイオータの状況がまったく同じ場合にはそれが成立するのですが、どうやらそこが違うと大差が出るようです。
どうりで、いくら食べても太らない人もいる一方、ほとんど大食とは無縁でも太っている人も居るわけです。
アレルギーの急増については、「衛生仮説」というものが発表され、ある程度の賛同を得ました。
これは1989年にイギリスの医師、デイヴィッド・ストラカンが発表したものですが、感染症や寄生虫が多い環境では免疫力が強化されるものの、そういったものを克服した「衛生社会」では免疫が働かないのでアレルギーになるという学説でした。
しかし、人体内には莫大な微生物叢があり、そこには紛れもない異物である微生物が多数存在します。
それに対する免疫細胞の攻撃というものは起きないようになっています。
どうやら、衛生仮説は成り立たないようです。
衛生仮説に代わるべき学説が、1998年にスウェーデンのウォルド教授により発表されました。
アレルギーの急増は、抗生物質の乱用によりマイクロバイオータの組成が変わったためだというものです。
古くから人体と友好な関係を築いてきたマイクロバイオータの微生物、それは「旧友」とでも言うべき存在であり、これを「旧友仮説」と呼びました。
抗生物質使用によって多くの感染症が治療されてきましたが、その副作用も初期から問題となっていました。
ペニシリンショックや、発疹などが有名ですが、それ以上に問題となっていたのが抗生物質を飲用した際の下痢でした。
これは特に腸内で急増するのが「クロストリジウム・ディフィシル」という細菌であることから、クロストリジウム・ディフィシル感染症と呼ばれますが、他の細菌が抗生物質で死滅した際に、なかなか抗生物質が効かないディフィシル菌がその隙間を埋めるように大量増殖してしまうことによって起きる病気です。
脱水症状、腹痛、体重減少が起き、さらに腸内で大量のガスが発生して結腸の破裂にまで至り生命にかかわるような病気です。
これは、腸内のマイクロバイオータ撹乱の結果として顕著な例ですが、そこまで至らなくても他にも相当な影響が出るようです。
腸内のマイクロバイオータは、胎児の時には無いのですが、出産時に母親の膣内の微生物、さらに腸内微生物を口から摂取することで母親と同じような構成を獲得するようにできています。
しかし、最近は帝王切開による出産が増加し、国によっては大半が帝王切開と言う事態になってきました。
こういった子供には腸内細菌がうまく継承されず、成長に大きな影響が出る恐れもあります。
このように、現代の人間と微生物の共生関係というものは3つの側面から脅かされています。
それは、抗生物質の乱用、食物繊維の摂取が少なくなったこと(これは腸内微生物の栄養となる)、そして出産方法などが変わってしまったことです。
このようなマイクロバイオータの変化により、微妙なバランスの上に成り立っていた人間の健康が脅かされています。
それを是正する方法として、最近よく研究されているのが「糞便移植」というものです。
腸内微生物を直接取り出して他人に移すということは難しいのですが、それとほぼ同じ効果が期待されるのが「糞便」です。
これには腸内細菌がそのまま排出されてくるので、それをマイクロバイオータの異常で不健康となっている人に移植してやれば改善する可能性があるというものです。
ただし、問題は「正常なマイクロバイオータを持つ健康な人」がどこに居るかということです。
研究を進めている大学教授が、学生に「抗生物質を今までに使ったことがない人はいるか」と聞いても誰も居なかったそうです。
抗生物質を使ってしまえばもはやマイクロバイオータは変質しており、元通りではありません。
しかし、この方向での研究が進めばいずれは解決の希望も見えてくるかもしれません。
なお、この腸内細菌の是正とは日本でよく言われる「善玉菌・悪玉菌」といった安易な二分法とは違います。
善玉菌だけを増やせば良くなるかのように思いますが、やはり多種多様な細菌がバランスを取って共生するということが必要なのでしょう。
また、草食動物は食べた植物を消化するのに腸内細菌が必須であるということも忘れがちですが重要なポイントでしょう。
元々は肉食系のコアラがユーカリの葉しか食べなくなったのですが、もちろんコアラにユーカリの葉を消化する酵素などあるはずもありません。
母親から腸内細菌を受け継いで、消化できるようになっているわけです。
私も高血圧・高血糖・高脂血症の三重苦、さらにアレルギーもあるというまさに21世紀病の典型的患者と言えるようです。
もしも健康な腸内細菌を移植できれば健康を取り戻せるのかもと考えると、期待が持てますが、あと何十年かかるのでしょうか。