嗅覚と匂いについては、心理学的には非常に大きなものなのですが、あまり深く研究されたことは少なかったようです。
それらに関わる多くの話題を、嗅覚心理学の第一人者と言われるアメリカのブラウン大学のハーツ博士が一般向けに解説します。
人間の感覚の中でも、視覚については数百冊の書籍を読むことができ、聴覚・触覚・味覚などの感覚に関してもある程度の本が出版されていますが、嗅覚についての本というものは最近までほとんど無かったということです。
しかし、人間の心理にとっては他の感覚と同様に嗅覚も非常に大きな影響を与えています。
本書の冒頭には、事故や病気で嗅覚を失った場合に人間はどのような心理状態になるかという実例が示されています。
オーストラリアのロックバンドの、マイケル・ハッチェンスは交通事故で頭蓋骨骨折、そして嗅覚を失いました。
それまでの食欲、セックス欲、快楽に溢れた生活の楽しみが奪われてしまい、うつ病となって自殺しました。
フロリダの若い女性ジェシカ・ロスも自動車事故で顔面を負傷しました。外見は何とか手術で元通りにしましたが、嗅覚は戻りませんでした。
やはりうつ状態となり、新婚の夫ともうまく行かなくなりました。
「良いにおい、悪いにおい」と言いますが、これは人によって大きく異なります。
バラの花は良いにおい、スカンクは悪いにおいというのが一般的かもしれませんが、そう感じない人も多いのです。
実際に、著者のハーツ博士はスカンクのにおいというものが好きなのだそうです。
7歳までは田舎で育ち、スカンクのにおいというもにも慣れ親しんでいたのですが、その後モントリオールの都会に転居してからはあまり良い記憶がなかったようです。
そのため、田舎の匂いに懐かしさをおぼえてしまうのです。
嗅覚と言う感覚は、実は人が誕生するときに最初に発達する感覚器です。
子宮の中で、受胎後12週ごろには十分に機能し始めます。
そのために、母親が摂取する様々な物質を匂いとして感じることができます。
これが、誕生後に赤ちゃんの味の好みに影響を与えます。
妊娠中にニンニクを食べ、アルコール飲料を飲み、喫煙した母親の乳児たちはこういったものの匂いを好むようになるということが判明しています。
また、母乳にも母親が摂取したものの匂いが移るため、授乳中ににんじんジュースを好んで飲んでいた母親の母乳を飲んだ乳児は、その後ベビーフードでにんじんを好むことが分かりました。
マルセル・プルーストの著述の中にあるように、「香りと記憶」は密接に関係があるようです。
ある香りを嗅いだとたん、かつての記憶が蘇るということは多くの人が経験しています。
ただし、これは学術的に扱うには非常に難しいものであり、なかなかまとまった研究は行われてきませんでした。
デューク大学のルービンのグループが1980年代に研究に着手しましたが、明確な証拠は見つかりませんでした。
1990年から、著者は研究を開始しました。
すると、匂いが呼び起こす記憶というものは、他の感覚が呼び起こす記憶より正確さや詳細さ、鮮明さは劣るものの、「情動性」すなわち感情に働きかける作用が大きいということが分かりました。
それがどうやらある匂いが激しく感情を揺り動かすことにつながっているようです。
アロマセラピーというものがあり、何らかの香料などで心を癒やすといったことを謳って商売にしている人たちが多数います。
これには長い歴史があり古代中国やエジプト、ローマでは様々なものが使われてきました。
ヨーロッパでは長年の伝統がありますが、アメリカでは最近まで浸透せず、現在でも公的なアロマセラピストの資格はありません。
しかし、実際には多くの施術家がそれを商売にしています。
ただし、人によって香りに対するイメージが異なるため、確実に万人に効果があるというようなアロマはないようです。
そこには心理的な暗示効果をうまく使っているのでしょう。
逆にある匂いが人体に障害を与えるということも言われています。
これも、暗示効果による場合が多いようで、実際には存在しない匂いが、あると暗示するだけで体の異常を訴える人が出てきます。
多種化学物質過敏症候群(MCS)もその一種であるということも言われています。
体の匂いというものが、特にパートナーを選ぶ際の重要な要素となることも体験的には知られています。
「最初に彼のにおいを嗅いだときから、彼が私の夫になることがわかりました」とは、心理学教授のエステル・カムペーニが告白していることです。
人の免疫系は主要組織適合抗原複合体(MHC)と呼ばれる遺伝子のグループによってコードされています。
これは一方では体の中である種の化学物質を作り出し、それが体臭のもととなっています。
これがどうやらパートナーを選ぶ際の好みを左右しているようです。
アメリカのごく小さい宗教集団に「フッター派教徒」という人たちが居ます。
彼らは人口は小さいのですが、その内部だけで通婚しています。
そのために、できるだけ近親結婚を避けるというということが重要となりますが、その方法というのが、どうやら嗅覚を使っているようなのです。
年頃となったフッター派の少女たちは、少年のいる家庭を訪問するのですが、そのときに体臭によって夫とできるかどうかを選別しています。
そこにはMHC遺伝子が関わっており、できるだけ異なる遺伝子構成がある少年の体臭を好ましいと感じるようなのです。
これは、スイス・ベルン大学のヴェデキンド教授のグループの研究でも確かめられています。
若い男女のグループにTシャツを二日間着させて、その体臭が移ったシャツの匂いのどれが好ましいかを調べました。
すると、MHC遺伝子が最も異なる異性を好ましいと感じることが分かりました。
できるだけ近親交配の危険性を回避できるような構造になっているようです。
フェロモンという言葉は大抵の人が知っていることでしょう。
しかし、その歴史はごくわずかなものです。
1959年にドイツの生化学者カールソンとスイスの昆虫学者リュッシャーが作った造語です。
アリの研究をしていて、その放出する化学物質が周囲のアリたちに影響していることを見出し、それを説明するためにこの言葉を作りました。
その後、他の動物も研究され、哺乳類まで含めた多くの種でフェロモンが発見されます。
しかし、人間にはフェロモンが確認されていません。
しかも他の哺乳類などにはフェロモンを感じる器官、ヤコブソン器官(鋤鼻器)というものがあり、そこで感知されているのですが、人間では胎児にはあるものの誕生時には消滅しています。
フェロモンを別の器官で感知しているという可能性はありますがまだ確認されていません。
学生寮などで多数が一緒に暮らす女性の間で、月経周期が揃ってくるという現象が知られており、マックントリック効果と呼ばれていますが、これがフェロモンが存在する証拠ではないかと言われています。
ただし、ヤコブソン器官が存在しないというのは紛れもないことであり、これは疑似フェロモン効果ではないかとも言われています。
冒頭にあげたジェシカ・ロスという女性は無嗅覚症になってしまったのですが、著者はこの人とのインタビューを繰り返しますがその間彼女が自分の体臭がひどいのではないかという不安を過剰に感じているのに気が付きました。
無嗅覚という中で、自分の体臭が感じられないからこそ他人への影響を過度に気にするようになってしまったのです。
これと同じように、現代では自分の体臭が他人を不快にしているのではないかという思いを感じる人が多く、ノイローゼになる人もいます。
実は、他人の匂いというものは嫌になるばかりではありません。
母親の匂いというものは子どもにとって安心できるものですし、赤ちゃんの匂いはその母親には特別なもので誕生後わずかの時間で他の赤ちゃんと区別できます。
しかし、見知らぬ他人の体臭というものはたいていひどい悪臭に感じられます。
ただし、民族による差は大きく、アジア人はコーカサス人に比べてアポクリン腺が少なく体毛も少ないために体臭がずっと少ないようです。
白人と接触を始めた明治期の日本人の著書に「黄色人種は臭わないが白人は臭い」と書いてあるのを発見した著者は驚きました。
なにしろ、白人は「黒人は極めて体臭が臭い」といって差別してきたのですから。
まさか、自分たちが日本人からそのように考えられていたとは思わなかったのでしょう。
ヨーロッパでは水が豊富では無かったということもあり、近代より前にはほとんど入浴をするという習慣はありませんでした。
そのために体臭の強さも激しいものでしたが、皆がそうであったためにそれに慣れてしまいあまり気にしなかったようです。
しかし、近代になると上流階級や金に余裕のある人々の間には風呂に入る習慣が生まれてきました。
そうなると、「下層階級は臭い」ということになり、階級差別につながっていきました。
また、ヨーロッパでは香水というものが非常に好まれていたのもそれの影響でした。
特に王侯貴族は高価な香水を使っており、その香りは特有のものでした。
フランス革命当時、幽閉されていたルイ16世とマリー・アントワネットは国外に逃亡しようとしたのですが、マリーの使っていた香水「王妃の目覚め」の香りで気付かれて連れ戻され、その後処刑されました。
しかし、体臭が薄くなっていった時代にはそれが一時的に少なくなりました。
20世紀初頭には男性はフレグランスの使用はしなくなり、女性もほのかな香りのものだけになってしまいました。
それが再び流行しだしたのはマリリン・モンローが寝るときに身につけるのはシャネルのNO5を2滴だと言ってからだそうです。
今後の嗅覚の進歩では、匂い検出機械の発展が挙げられています。
さまざまなものの発見に、電子鼻というものが役に立つのではないかとされています。
しかし、まだまだ犬の鼻にはかなわないようです。