本書あとがきに正直に書かれているように、ノーベル文学賞に選ばれた人の作品というものがほとんど読まれていないのをもったいないと思い、その構想を出版社編集者に持ちかけてもあまりにも日本では知られていない作家ばかりなので断られたそうです。
それでも2017年にカズオ・イシグロが受賞した時にそれに乗じてこの本を書いてしまったとか。
日本では「ノーベル文学賞」の季節になると村上春樹が取れるかどうかということしか話題にならず、決まった後も受賞者が誰か、その作品はどのようなものかといったということが報道されることもほとんどない状況です。
それほどに、最近のノーベル文学賞は日本では無名?の作家が受賞していますが、その作品はやはりそれ相応の意味があり、また当然ながら高い実力を持つ受賞者ばかりで、それを読まないというのももったいないだろうと言うことで、1980年代以降の受賞者の中からできるだけ紹介したいということです。
ただし、著者の橋本さんは作家ではなく「小説言語の言語学的分析」というものを研究している方ですので、「何が書かれているか」だけでなく「どのように書かれているか」という技巧面にも着目されています。
それぞれの作品の深い解釈にまでは踏み込んでいないので、それは興味を抱いた読者におまかせするということです。
まず、「ノーベル文学賞とな何か」から説明されています。
ノーベル文学賞は別に公的な機関による公平な文学世界選手権ではないということです。
選ぶのはスウェーデン・アカデミーの18人の選考委員で、そこには特有の何らかの価値観があり、それに従っての選考です。
どんなに素晴らしい作品であっても、1つの作品だけで選ばれることはなく、過去の実績を総合的に勘案して選考しているようで、新進の作家や詩人や選ばれません。
また、存命でなければ選ばれないのは他のノーベル賞各分野と同様であり、夭折したら資格を失います。
初期はほとんど欧米の作家ばかりが選ばれましたが、1968年の川端康成受賞以降はできるだけ多様な地域から選ぶという努力はされているようです。
最近は少数派を描く作品が非常に多く選ばれています。
現在でも世界的に力を持っている属性は「ヨーロッパ・白人・男性」ですが、その人々は最近はほとんど受賞していません。
また、ユダヤ人・ナチスを扱うものが好まれ、共産主義、軍事的英雄賛美と言う傾向のものは全く選ばれません。
最初に紹介されているのは1981年受賞のエリアス・カネッティです。
カネッティはブルガリア生まれのユダヤ人で、その母語はラディノ語というスペイン語系統の言葉ですが、その後ウィーンに移住して作品はすべてドイツ語で書かれました。
1931年に出版されたのが唯一の長編の「眩暈」です。
すべての登場人物が勘違いをしているという、シュールレアリスティックな形態ですが、人物の内面を描くために「自由間接話法」という技巧を使っており、日本語には訳しづらいために少々分かりにくいそうです。
1993年に受賞したトニ・モリソンは、アメリカの作家ですが黒人であり女性です。
二重に差別をされていた存在ですが、単に黒人差別などを告発しただけではない、小説の普遍的な価値の高さがあります。
「ソロモンの歌」「ビラブド」等の作品がありますが、技巧的にも凝るタイプの作家で一作ごとに語り方を変えているそうです。
1998年の南アフリカのナディン・ゴーディマは、女性作家ですが、ノーベル賞作家としては珍しいほどのストレートなリアリズムであり、著者の橋本さんは「正直言って私は面白いとは思わない。91年に南アフリカでアパルトヘイトの廃止が宣言されたので、ゴーディマの受賞はそれを記念したものだろう」と書いています。
2017年のカズオ・イシグロは1954年長崎生まれですが、5歳の時に両親とともにイギリスに移住しており日本語はほとんど分かりません。
しかし、小説の舞台は日本としており、特に初期にはイギリス国内で日本的な文学として受け取られていました。
本人も意図的に「イギリス人に対する日本表象」を入れ込んでいるようです。
カズオ・イシグロといえば「信頼できない語り手」と言えます。
小説文では、通常は地の文で語られることは事実と受け取られます。
しかし、それが嘘ではないかと疑わせるように書く作家が居ます。
イシグロがそれにあたるようです。
なお、ノーベル賞作家の中では例外的にカズオ・イシグロは受賞後に日本で売れてベストセラーとなりました。
その語り口を経験した読者も多いようです。
最後に再び橋本さんが強調しているのは「日本人が受賞するかどうかだけにこだわるのはやめて、受賞作を読もう」ということです。
選考に独自の思惑があるのは確かですが、選ばれる作家は確かに世界有数のレベルの高さを持っています。
これを読まないのはもったいない。