爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「前方後円墳の世界」広瀬和雄著

古代の古墳の中でもその特有の形状で印象的な「前方後円墳」ですが、大阪の百舌鳥古市古墳群世界遺産となったということもありました。

 

この前方後円墳は、3世紀半ばから7世紀の初めにかけての約350年間に、北海道・北東北と沖縄を除く全国各地に、約5200基が作られました。

それらはどれも同じような様式と構造を持っており、墳長100メートルを越える大型のものは302基あります。

こういった古墳の造成には、多くの労働力と富が注ぎ込まれました。

 

しかし、こういった古墳が何のために、どのような状況で作られたかということは、それほどはっきりと分かっているわけではないようです。

 

兵庫県神戸市の垂水にある五色塚古墳は、4世紀後半の古墳時代前期の後半に作られたものですが、築造当時の状態を復元しているために、驚くほどの状態にされています。

斜面は川原石で葺かれ、各テラスや墳頂部には円筒埴輪がびっしりと並べられています。

他の多くの古墳がその後草木に覆われて小山のようになっているところが多いのですが、五色塚古墳の原状回復には批判も多いものの、築造当時の姿というものがどういうものかということをアピールするという意味は十分に果たしているようです。

そこは、今も昔も交通の要衝であり、かつては淡路島との間の明石海峡を通る船からもよく見えた場所でした。

そのように、周囲を圧するような威容を見せつける事自体がこの古墳の目的だったようです。

 

そのような、埋葬された首長の「住んでいた拠点以外の場所」に建造された古墳は他にも見られ、これらは明らかに「多数の人々に見せつける」効果を狙っていたようです。

韓国にも同じ時代には古墳が数多く作られているのですが、このような「見せつけ」を目的としたものは無いようです。

規模も大きなものはあまりなく、かの百済武寧王の墓も20mほどの円墳にすぎません。

どうやら近くて関係の深かった朝鮮半島とも墳墓の概念はかなり異なったようです。

 

かつての概念では、近畿を中心として栄えた古墳文化が徐々に地方にも伝わっていき、各地に前方後円墳が作られるようになったと考えられていました。

しかし、国内でも多くの地域では前方後円墳がほぼ同時に作り始められたようなのです。

さらに、その埋葬された首長という人々は、大和の朝廷に完全に従属したためにその古墳文化を取り入れたということではなく、かなり独立した権力を持っていた時期でした。

だからこそ、配下の人々を使ってあのような大きな墳墓の造成工事を行うことができたようです。

ただし、それに先行する墳墓がないような関東地方でもいきなり前方後円墳が作られている地域があります。

この墳墓を作った勢力はどのようなものだったのか、まだ確定した説はないようです。

実力のない首長を中央朝廷が援助したのか、あるいはその首長は中央からの派遣将軍だったのか、いろいろな可能性があるようです。

 

相模など南部を除いた東国各地では、6世紀後半になって前方後円墳が爆発的に作られました。

他の地域ではすでに造成が減っていた時期であり、この集中は特別なもののようです。

ごく狭い地域に同時にいくつもの古墳が作られた場合もあったようで、その労働力も多くが動員されたのでしょう。

ただし、他の地域と比べて高さが低いものが多く、さすがに人員不足が現れたようです。

 

このような前方後円墳ですが、7世紀初めには全国的に終息します。

大和から九州にかけては6世紀から徐々に減少していき600年を越えたくらいにまったく姿を消すのですが、東国では前方後円墳が姿を消しても方墳や円墳の大規模なものがいくつか作られています。

その規模も大きなものが群馬県の総社古墳群に見られ、これらの首長の勢威は凋落はしていなかったようです。

やはり古墳の終息というものは、首長の勢力がなくなったからではなく、何らかの中央からの働きかけがあったからのようです。

 

古墳に惹かれるという人がいるのも分かる気はします。

 

前方後円墳の世界 (岩波新書)

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