爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「曹操墓の真相」河南省文物考古研究所編著、渡邉義浩監訳

三国志の中で有名な曹操は、その墓が見つからないままでした。

三国志演義劉備との対比を大きくするために、悪役として描かれるようになったこともあり、曹操は自ら亡くなる時に偽墓を作るようにと命じたことにされてしまいました。

そこには、自分が他の人々の墓所を暴くという行為を行なったために(これも事実ではありませんが)自分の墓は絶対に隠そうとして偽の墓を72箇所作るように命じたという話が、後代になって作られたという事情も関係してきます。

 

曹操墓所の発見には、その前段階の発見がありました。

1998年、河南省正高穴村というところに住む徐玉超という人物が土中から四角形の青い石を見つけました。

それには文字が書かれていました。

それを解読してみると、後趙という4世紀の政権に仕えた魯潜という人物の墓に入れるために作られた墓誌であることが分かりました。

問題は、その中に書かれていた彼の墓の所在地を示す記述にありました。

「墓は、魏の武帝陵の西43歩、北250歩にある」と書かれていたのです。

 

つまり、この魯潜の墓のすぐそばに魏の武帝、すなわち曹操の墓があるということになります。

実はこの青石が見つかったのは魯潜の墓ではないようなので、すぐに曹操の墓が見つかるということにはならないのですが、それでもその近辺にあることは確かになりました。

 

この報せを受けた考古研究所はすぐにでも発掘を始めようとしました。

しかし、国の規定によりその許可がなかなか下りないまま時間が経っていきます。

その噂を聞きつけたのが近隣の住民で、彼らは昔ながらの伝統を思い出し、「盗掘」を始めてしまいました。

多くの文物が盗掘者により盗み出された頃になってようやく考古学研究所に発掘の許可が下りることとなりました。

盗掘者の捜査も行われ若干の文物は取り戻すことができたものの、失われたものもありました。

 

貴重な遺物は多く失われたものの、考古学的発掘は行われ、盗掘者が取り残したものを得る事ができました。

そこには、場所が移動はされているものの、3人分の頭骨が残されていました。

さらに、破片となってはいたものの(だから残された?)様々な文物を得ることができました。

 

しかし、難しいのはその解釈となります。

この墓の被葬者が本当に曹操なのか。

それを直接的に証明することができません。

墓誌」という形式のものが出てくれば、それに被葬者についての記述があるはずですが、それが見つかりません。

もしかして盗掘者に盗まれたのか。

実は、墓誌というものが残されるようになったのは南北朝の頃からであり、三国時代の初めの頃にはまだなかったということです。

漢の時代にはそれに先行する告地状というものが墓に入れられたのですが、それは通常は木牘であり、長くは残らなかったのでしょうか。

 

それでも、この西高穴2号墓は規模は帝王クラスのものであり、年代も漢の末期ということで、曹操の墓である可能性が強いと判断されています。

 

頭骨の鑑定からは、その1体は60歳くらいの男性、あとの2体は、ふたりとも女性で、一人は50歳以上、一人は25歳程度と見られました。

曹操は66歳で亡くなっていますので、男性は曹操であると考えられますが、女性が誰であるかは難しいようです。

曹操は数多くの妻を持っていましたので、そのうち特に2名を合葬したのはなぜかが謎となります。

年上の1名は、妻の中でももっとも重要視されていた卞夫人(べんふじん)ではないかと見られていますが、記録によれば亡くなったのは70歳くらいとされていますので、少々年齢が合わないのかもしれません。

ただし、この年齢差は個人差も大きいので許容範囲内とみられます。

若い女性の方はほとんど手がかりがないようです。

 

本書は発掘を担当した河南省の研究所の担当者が執筆したものですので、曹操の墓ということで書かれていますが、まだ最終的な結論とは認められていないようです。

 

監訳をされた渡邉さんは、大東文化大教授で、日本の三国志学会事務局長という方ですが、訳者みずから「この墓は曹操墓ではないとの疑いが半分ある」と書いています。

そのうちに完全に決着することがあるのかもしれませんが、そのためには完璧に説明できる考古学的遺物が発見されるか、これまでの発見物の中から見つかるかということが必要なのでしょうか。

 

曹操墓の真相

曹操墓の真相