コラムニストとしてあちこちにコラムを書いている小田嶋さん、私も読んだことがありますが、面白い文章と思います。
その小田嶋さんが、「コラムの書き方」というコラムを書いてしまったという本です。
もとは、ミシマ社という出版社から発行されている「ミシマガジン」という本に連載されたコラムだそうですが、そこの三島社長と話して、このような内容のコラムを書くということにしたものの、なかなか進まずに時間ばかりかかったそうです。
なにしろ、初回の次の章には「いきなりの休載失礼しました」とあるほどで、特に最初の頃には筆が進まなかったようです。
まあ、かなり難しい題材なのでしょう。
私が今書いているブログというものも、コラムとはちょっと違うようで、書きたいことをずらずらと並べているだけですから、書く苦労はありませんが、ちゃんと金を貰って本のページを埋めてということになればまた違うのでしょう。
そんな経緯ですが、目次を見ると「コラムとは何か」から始まり、書き出しについて、だとか、結末、落ちなど、一応コラムの書き方らしきものも続いていますが、まあ読んでいてそれほど書ける気になったということもありません。
なお、巻末には本ブログでも最近たびたび引用させて頂いている、内田樹さんと小田嶋さんの対談が収められています。
内田さんが小田嶋さんの文体に影響を受けたと言っているそうで、内田さんは小田嶋さんの単行本をすべて持っているとか。
本書の中にも「文体について」という章があり、小田嶋さんは文体というものを重要視しているということも分かります。
「推敲について」ということも書かれています。
推敲という言葉は、その出典となる中国の故事でも一文字に悩んだというところから出ていますが、現実にはどこまで推敲していくべきかということには微妙な力加減が必要です。
「400字5枚程度の原稿を書くのに、丸2週間かけるような書き手がいるが、こういう人は文章の出来不出来に関係なく、書き手としては独立できない」
まさにそのとおりでしょう。
「私の観察では、推敲が甘くて使い物にならない書き手より、推敲しすぎてドツボにハマっている書き手の方が多い」
これもそうでしょう。
「読者は実際には、彼らが考えているほど、細かく読んでいない」
これを言っちゃおしまい。
日本語の性質とも関わりますが、「主語の使い方」も難しいようです。
「日本語がそもそも主語と相性の悪い言語だからだ」
と言い切っちゃいます。
たとえば「源氏物語」には主語のない文章がとても多い。
おそらく、紫式部の時代の日本人は、主語を明示することを「はばかっていた」ということなのでしょう。
当時は、貴人の名前を直接明示することを避けるという風習もありました。
それ以前に、主語をあけすけに書くこと自体を、破廉恥な態度だと感じていたのでしょう。
こういった感覚は現代にも引き継がれており、短歌や俳句、詩などでも主語は極力排除される。
省略だらけの文脈から主語を類推し、関係を把握し、空気を読み、余白を想像力で埋めることで書き手の意図を読み取る能力が、すなわち国語の読解力である。
なお、新聞でもその文章には主語はほとんど出てきません。
これは、やまとことばでの主語排除ということとは理由が異なり、新聞社では記者個人の意見がなく会社の意見だけだからだということです。
こういった文章をズバズバと投げ込んでいく。
さすがコラムニストです。