爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「奥州藤原氏五代」大矢邦宣著

平安時代末期に奥州平泉を中心に華やかな文化を誇った藤原氏が勢力を持ちました。

当時は大量に産出した金と、軍馬の供給で経済力を付け、平泉の中尊寺に残る金色堂はその当時の面影をわずかながらも見せてくれます。

 

この本では、その藤原氏の五代の歴史について細かいところまで教えてくれます。

著者は、本書出版当時は岩手県立博物館の首席専門学芸員であった大矢さんで、平泉文化に対する愛情が伝わってきます。

 

なお、通常は「奥州藤原氏四代」として、藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡の四代を呼ぶのが普通ですが、著者は清衡の父の藤原経清の存在が大きかったとして、そこから話を始めています。

 

奥州はかつては大和朝廷に服さないエミシの国でしたが、坂上田村麻呂などにより大和の支配下に入るようになり、服属したエミシの後裔や都から流れてきた人々が勢力を強めていきます。

10世紀から11世紀にかけて、安倍氏がその一帯を支配するようになります。

安倍貞任が最も勢力を強めますが、この安倍氏もエミシ後裔と考えられますが、都から奥州支配のために派遣された鎮守府将軍安倍朝臣貞行という人も居り、それと無関係とも言えないようです。

 

この安倍貞任を討伐するために遣わされたのが源頼義で、前九年の役と呼ばれる合戦を戦いました。

強力な安倍氏を滅ぼすまでには9年間かかったという苦戦でしたが、謀略をめぐらしてなんとか滅ぼします。

そのときに安倍氏に協力したとして捕らえられ処刑されたのが、藤原経清でした。

経清は朝廷側の役人でしたが、裏切りを疑われて身の危険を感じ、安倍氏側に寝返ります。

そして源軍を苦しめたために、捕まった後は極刑に処されてしまいます。

 

その時にはまだ安倍氏は勢力を残していたのですが、源軍に加勢して安倍氏を掃討したのが清原武則でした。

清原氏安倍氏の勢力と対抗できるほどに成長しており、その後は奥州一帯を勢力下にいれます。

この清原武則に、藤原経清の妻と子が養われることになります。

この経清の子が藤原清衡です。その時には年は七歳。殺されなかったのはその母親が美女だったからということです。

 

前九年の合戦の恩賞は、清原武則に厚く鎮守府将軍に任ぜられました。奥州出身者としては初めての抜擢でした。

その後は20年に渡り清原氏が奥州を支配します。

清原武則の子の清原真衡家督を継ぐのですが、母親の連れ子の清衡が勢力を持つのを憎み争うことになります。

しかし、そのさなかに真衡は死に、当時将軍であった源義家の裁定によりその弟の家衡と清衡に半分ずつを相続させます。

そのために家衡が清衡を襲い、妻子を殺害するという事件になります。

その後、源義家清原氏を滅ぼすのが後三年の合戦ということになり、藤原清衡が安倍・清原の領地を合わせて領有していくということになります。

 

清衡は奥州六郡を領有し、平泉を本拠地と定め館を構え、中尊寺を建立し金色堂を建てます。

これには奥州の第一の特産品であった金をふんだんに用います。

さらに、金と銀を用いてそれで字を書いたという「紺紙金銀字一切経」という逸品も作ります。

これは白河法皇が作った「紺紙金字一切経」のさらに上を行くようなものでした。

 

しかし、相次いで金を大量に都の朝廷から納入を求められ、さすがの奥州の砂金も尽きてしまいます。

そして、最後には源義経をかくまったために鎌倉の源頼朝将軍に攻められ、平泉四代の藤原泰衡義経を攻め滅ぼしたものの、それで許されるはずもなく、頼朝自らが奥州征伐に当たり、藤原氏の政権は滅ぼされたのでした。

 

金色堂だけは今にその繁栄の影だけを残していますが、都や鎌倉の政権からも恐れられたその勢力は今では想像もしづらくなっているようです。

 

奥州藤原氏五代―みちのくが一つになった時代

奥州藤原氏五代―みちのくが一つになった時代