爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「悪と日本人」山折哲男著

オウム事件では、「悪」と宗教の関係がクローズアップされました。

どの宗教でも「悪」と言うものは大きなテーマであり、それに対する態度はキリスト教などと日本の宗教ではかなり違っているようです。

こういった難しいテーマを、宗教学者の山折さんが数々の著作について分析し、また島田裕巳さん、吉本隆明さん、平野啓一郎さんとの対談で掘り下げていきます。

 

まず最初は菊池寛の「凶悪犯罪小説」2編について語っていきます。

それは「恩讐の彼方に」と「ある抗議書」です。

恩讐の彼方に」は耶馬渓のトンネル掘削を一人でやり遂げた僧が実はかつて主人を惨殺して逃げた犯人であり、それを仇と狙う主人の息子も耶馬渓で掘削を手伝うというものです。

「ある抗議書」の方は大正時代に実際に起きた殺人事件を題材としたもので、夫婦を殺害した犯人に死刑判決が下るものの、獄中で教誨師によって犯人は改心し、キリスト教に入信して心静かに処刑されたことに対し、被害者の遺族が悲痛な抗議をするというものです。「殺された人は地獄の苦しみで死んでいったのに、なぜ殺した者が天国に登るような心境でこの世を去ったのか」

凶悪犯罪に対し、厳罰主義、極刑主義で臨むか、あるいは否か。今でも議論をよぶ問題です。

 

宗教にとって善悪と言うことは大きな問題ですが、特にキリスト教徒には重大な関心事でした。

「神によって選ばれた民」と「そうでない民」ははっきりと分けられていました。

もちろん、「選ばれた民」が善で、「選ばれない民」が悪です。

宗教改革を推進したカルビンは、さらに二元論的な傾向が強く、「善なるもの」と「悪なるもの」ははっきりと別れていると考えました。

そして、現代に続く資本主義というものは、このようなカルビン的プロテスタンティズムが底流にあって形成されたと考えられます。

そのため、経済社会でも成功者は「善きもの」であり、経済的失敗者、落伍者は「呪われた人間」としてしまったのです。

 

日本に入ってきた仏教でも善悪は別れていました。

日本霊異記でも、悪はやがて善に滅ぼされると言う因果応報が説かれています。

しかし、太平洋戦争中に学徒兵として出征し死んでいった若者たちが残したものに多くの短歌が見られますが、そこには短歌的叙情に傾き善悪の観念を放棄しているようにみえるものが多いということです。

今では既存の宗教は無力化しているのでしょうか。

そこに、オウム真理教もつけ込んだのでしょうか。

 

日本社会には一神教も契約という観念も育ちませんでした。

そこに、「人間とは信ずべき存在である」と言う考え方が生まれました。

それが「日本教」とでも言うべき宗教観になるのかもしれません。

 

ただし、それが今では危機にひんしています。

内部告発」と言う正義の御旗があちこちに高く掲げられていますが、これは今までの人間と組織の信頼関係を崩してしまっています。

それが通るためには、一神教的価値観と契約の精神が必要なのですが、これを欠いたままでは自滅の道となるでしょう。

 

内部告発の問題を社会の基盤に結びつけて論じたのははじめて見ました。そういう考えもあるのかというところです。

 

悪と日本人

悪と日本人