著者の小島さんは、実業界で仕事をしながらも鉄道史、旅行史といった分野の著作も出版されているとのことで、筋金入りの鉄道ファンとお見受け致します。
(なお、本書中にも言及がありますが、”鉄道マニア”という言葉は諸外国では産業界での鉄道のブームといった意味になり、個人としての鉄道好きは普通に”鉄道ファン”あるいは”鉄道エンスージアスト”というべきだそうです。
本書は、その経験と知識を活かし近代史と鉄道との関わりについて書いてみようとされたとのことです。
鉄道前史とも言うべき、馬車でひかせたものから始まり、一部は戦後まで入りますが、鉄道黄金時代であった第二次大戦前までの、鉄道と諸国の文化との関連を明らかにしています。
産業革命が起こり、都市部への人口移動が進んでくると、物資の輸送、人間の移動もそれまでとは比べ物にならないほどに増加していきました。
ヨーロッパではそれは主に馬車を使っていたのですが、イギリスでは17世紀に乗合馬車がロンドンに生まれています。
都市間の長距離の郵便馬車というものも始まりますが、道路は劣悪であり乗り心地はひどいものでした。
やがて、そのような駅馬車の会社が発達し、道路も専用の有料道路を作るまでになってきます。これを「ターンパイク」と言ったそうですが、その名を使っている日本の有料道路もあります。
アメリカでは国土が広すぎたこともあり、また河川が大きく水運の方が有利だったために、航路整備が優先しました。
道路の整備より簡便な方法として、木製のレールを敷いてその上を走る「馬車鉄道」も誕生します。
18世紀には製鉄技術の進歩により鋳鉄製のレールが出現し、19世紀には錬鉄製となり木製レールに取って代わり、本格的な鉄路が誕生します。
そのような環境が整う中で、馬車に代わって蒸気機関を用いた汽車鉄道がお目見えします。
1829年の機関車のコンテストで、スティーブンソンのロケット号が圧勝し採用が決まり、1830年にはリヴァプールとマンチェスターの間に運行が始まりました。
その後、またたくまにイギリスやアメリカでは鉄道敷設の動きが加速し、イギリス全土に鉄道網ができることになります。
ただし、その列車設備はまだまだ劣悪で、非常に高い運賃の割には旅行は難行苦行であったようです。
こういった鉄道には、幕末から欧米に渡った日本人の使節も乗車する機会があり、日本でもやがてという思いを強くして帰国しました。
初期の鉄道事業は、その運賃がかなり高価だったせいもあり、非常に儲かった事業であったようです。
当時はまだ他の交通機関が存在しないに等しく、独占事業で運賃も高額、良い商売だったのですが、それも1930年代には陰りが見えることになります。
19世紀中頃には、イギリスの国内はもはら主要幹線がもれなく敷設されていました。
中流階級の増加にともない、鉄道旅行熱も広がり、リゾートへ向かう旅行が大流行します。
ヨーロッパ全体への旅行も増え、団体旅行ブームとなり、旅行会社のトーマス・クック社が繁盛します。
切符だけでなく、ホテルや旅券、両替まで何でも世話をしてくれ、簡便な旅行が可能となりました。
日本でも観光地へ向かう旅行が大ブームとなり、列車はどれもすし詰めの混雑となります。
しかし、20世紀に入ると鉄道に忍び寄るライバルが出現しました。
自動車と飛行機です。
アメリカでは1908年にT型フォードがデビュー、一般大衆まで普及が始まります。
実は、その時期はアメリカにおいて鉄道が最後の繁栄をしていた時期でもあります。
「インターアーバン」と呼ばれる都市間を結ぶ電車の鉄道が、急速に発展し、最盛期には総延長3万キロにも達するほどでした。
その中でも、インディアナポリスは最大規模のインターアーバンのターミナルとして、一日500本以上の電車が発着するほどでした。
しかし、自動車の急速な普及で、あっという間にインターアーバンは廃業してしまいました。
アジアにおいては、ロシアの極東進出とともに建設されたシベリア鉄道が日本の脅威となっていました。
満州までも鉄道を敷設しようとしたのですが、日露戦争で食い止め、そのかわりに日本が南満州鉄道を建設しました。
実は、日露戦争時に日本の戦時公債をもっとも多く引き受けたのがアメリカの鉄道王ハリマンでした。
日露戦争集結時にも、彼からの働きかけで満鉄の日米共同経営が提案されました。
日本は主導権を握られることを恐れ断りましたが、もしもこれを受諾していたらその後の世界情勢は大きく変わっていたかもしれません。
一時は自動車と飛行機によって衰退させられた鉄道ですが、最近は復活の動きも各地で生まれています。
抜群の省エネルギー、環境にも良い鉄道は今後も活躍し続けるでしょう。