岩波新書のシリーズ日本近現代史はNO8高度成長を読んだことがあります。
この「ポスト戦後社会」はそれに続くもので1970年頃から以降を扱っています。
この時期は、私にとってはようやく社会のことも分かりだした少年時代から現在までということになり、新聞やテレビでその時々にニュースとして見てきたことも多いのですが、青少年期はもちろん、その後のこともこうやって読み直してみると、その時にはほとんど意味も分かっていなかったということが多いのには驚くとともに情けなくがっかりしてしまいます。
ようやく今になって、暇に任せて色々と本を読み調べ直して分かるようになってきたのかもしれません。
「ポスト戦後」というためには、「戦後」という時代がいつまで続いていたかを明らかにしなければ明確にはなりません。
「戦後はもう終わった」と高らかに歌い上げたこともありました。
占領が終わった時が戦後の終了とも考えられます。
しかし、著者は戦後の世界の流れを見た時、日本では第二次大戦が終わったことがイコール戦争終了となったものの、それからすぐに共産圏との戦争、そして冷戦が始まり、その中で日本が経済集中して復興、そして高度成長を果たしたのも、「戦時中」だからであったと考えます。
一方で、日本においては「戦後社会」は成長が実際に起きていたために「理想」と「夢」が存在した(見田宗介)ものの、「ポスト戦後社会」ではそれが「虚構」となったとしています。
シンボリックな事件が1968年の永山則夫による連続射殺事件でした。
この事件の20年後に起きた幼女連続殺害事件は現実が失われた虚構の中での感覚で実行されています。
戦後、とポスト戦後では、家族、都市、産業いずれも大きな変化を見せます。
70年代以降、家族はさらに解体し核家族からさらに少子高齢化へ、それまでの都市集中の都市化から大都市郊外というものへ都市も農村も飲み込まれる「郊外化」へ、産業の重厚長大から軽薄短小へ、そして専業主婦の激減へと変化したのでした。
そして、それまでの日本だけの中で動いたかのように見える時代から、否応なく世界全体の動きの中に放り込まれる、グローバリゼーションが強まります。
世界的に見てグローバリゼーションは1989年の劇的な共産圏崩壊によりもたらされたかのように思いますが、実はそれ以前の70年代の為替変動相場制への移行により起きた、莫大な金融マネーの越境運用に始まっていたのでした。
他にも大きな動きが色々とありますが、各章の題名のみを紹介することにします。
第1章 左翼の終わり
第2章 豊かさの幻想の中で
第3章 家族は溶解したか
第4章 地域開発が遺したもの
第5章 失われた10年のなかで
第6章 アジアからのポスト戦後史
1970年に開かれた大阪万博は色々な意味で象徴的なものでした。
しかし、上田哲が評したように、万博を報じたメディアはそれを一つも批判せずに、協賛者として振る舞っただけだということです。
私はこの時高校1年生、見には行かなかったものの報道だけ見て満腹になりました。
1970年代以降、日本人の意識は大きく変化していきました。
1973年以降、NHK放送文化研究所は5年おきに30年間にわたり国民の意識調査を実施し、貴重なデータとなっていますが、「父親は仕事、母親は家事」という意識は20年で逆転しています。
女性も子供が産まれても仕事を続けるべきという人も20年で倍増しました。
しかし、このような意識はあっても社会的な仕組みはやはり男性優位社会の継続であり、これは現在でもまだ大きく残っています。
巻末には、もはや「日本史」というものが終焉しているのではないかとあります。
これは日本が無くなるということではなく、日本としてだけの記述はできなくなる、東アジアあるいはアジア全体、さらには世界全体として見なければならなくなるということでしょうか。