九州と朝鮮半島の距離はわずかなものであり、福岡から東京に行くよりは釜山に行くほうがはるかに近いものです。
古代から近代まで、朝鮮半島から日本へは多くの人間、事物が流れ込みましたが、そのほとんどは九州を経由していきました。
また、国家体制が緩やかであった頃は相互の行き来も現代と比べてもはるかに容易で頻繁であったこともあったようです。
そのため、様々な時代に朝鮮半島と関わった事績というものが、九州には数多く残っています。
そういったものを、歴史の各時代の研究者たちが詳しく紹介したものが本書です。
その中には、教科書に載っているようなものもあれば、ひっそりと町や山野の中に残っているものもあります。
かなり詳しく所在地や写真まで掲載してありますので、実際に訪れてそれを見るということも可能でしょう。
古代の百済や新羅との関係、それが九州にどのように残っているかということについては、他にたくさんの本が出ているので、あまりここでは詳しくは触れてありません。
秀吉の朝鮮出兵では、多くの人を捕虜として連れ帰り、また鐘や仏像なども略奪してきたようです。こういったものが残っている場合もあり、まだ韓国との間で紛争のもととなっているようです。
また、陶芸をさせるために朝鮮から陶工を多く連れ帰ってきたのは、どうやらそれが一つの狙いだったようです。
江戸時代になって数多くの朝鮮通信使がやってきましたが、その記録が対馬や福岡には数多く残っているようです。
福岡藩は通信使はほとんど逗留しなかったのですが、玄界灘に浮かぶ相島(あいのしま)に寄港した際に饗応したそうです。
その時には博多などの文化人が押し寄せて通信使と面会をし、その対応に困るほどだったとか。
改めて、朝鮮と九州との深い関係というものを認識させられるものでした。