爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「星新一 1001話をつくった人」最相葉月著

星新一という名前は今でも多くの人の記憶に残っているでしょう。

日本でのSF小説の先陣を切った人。ショートショートという分野を確立した人。

そして亡くなってからすでに20年以上経っているということが信じられないほど存在感の大きい人と言えます。(1997年12月71歳で逝去)

 

最相葉月さんはこの作品で大佛次郎賞他の文芸賞を受賞されましたが、あとがきによると生前の星さんにお会いしたこともなく、それどころか一通り星さんの作品を読んだあとは読み返すこともない普通の読者だったそうです。

しかし、あるきっかけで作品を再読し、その奥深さに改めて気づいてから引き込まれるように星新一伝記というものを書こうという意欲が湧き、遺族の許しを得てから厖大な取材を始めて執筆、完成まで5年以上をかけたということです。

 

そのため、できるかぎり広く関係者の方々の話を伺ったものの、すでに亡くなった方も多く真相が不明となった部分も出てきています。

これも、星さん自身が自分のことを家族にもあまり語ることが無かったという事情と合わさり、靄のかかってしまった理由となっています。

 

本書前半は、星新一の父親、星一についての記述です。

星一は裸一貫から製薬事業を立ち上げ、星製薬グループを率いて一大事業を展開したのですが、様々な事情から業績悪化を招き、立て直しに悪戦苦闘を繰り返していた時に病気で急死しました。

こういった経緯については、星新一の著作「人民は弱し 官吏は強し」にも取り上げられています。この著述の事情についても本書中に詳しく書かれています。

 

新一(本名は親一)は企業経営を初めから志すということもなく、それでも一応家業に関係する分野ということで、旧制高校から東京帝大農学部に進学、研究生活を送ります。

しかし、父親が急死したためにやむを得ず会社経営に携わりますが、すでに会社の状況は最悪、さらに本人の経営手腕欠如も加わり破綻ということになりました。

 

ちょうどその頃にアメリカからSF小説というものの様子が伝わってきており、新一もその方向で作品を発表してみますが、事情が上手く作用して売れてしまうという結果になりました。

 

そのため、その後成長を見せたSF小説の作家の中でも別格の先輩格とみなされるようになります。

 

ただし、既存の文学界からはそのようなグループなどはまともに扱ってもらえず、子供だましのようなものとバカにされることが多かったようで、悔しい思いも多かったことでしょう。

 

星新一が「文学が人間の想像力を否定するものとは知らなかった」と言ったという挿話は前から知っていましたが、それが昭和45年の「三田文学」という誌上での対談であったということは初めて知りました。

SFが想像力を駆使するということを、純文学系の人々は否定しがちだったのでしょうが、それに強く反発したのはSF作家皆がそうだった中でも星さんはその思いが強かったのでしょう。

 

SFマガジンでの福島正実に引き起こされた騒動、覆面座談会の波紋なども以前から他の人の著作などで聞き知っていましたが、その詳細も記述されていました。

 

しかし、小松左京筒井康隆の活躍以降は、他の多くのSF作家たちの出現も増え、星新一の活躍の場も狭まり、前時代の作家というイメージが広がった中で本人の苦悩も増えたようです。

ショートショートという、発想だけが価値のようなものを作り出すという大変な作業に対する熱意も薄れ、長いスランプ状態に陥ったのですが、ショートショート千篇に達するまでは頑張るという思いで復活し、絞り出すように最後の作品群を書き続けたそうです。

 

星新一の作品集は没後にもずっと売れ続けているそうです。さらに世界各国で翻訳の出版も続いており、無許可の出版まで多発しているとか。

その最初の作品の発表は60年前であるにもかかわらず、作品の骨組みの斬新さは変わりません。

偉大な先人であったというべきでしょう。

 

星新一 一〇〇一話をつくった人

星新一 一〇〇一話をつくった人